Made in Koreaのマルチーズ、マリ16歳
16歳だった、マルチーズのマリが虹の橋を渡って今年の12月14日で4年が過ぎた。
マリは旦那さんが韓国で飼っていて、日本にくる時連れてきた愛犬だ。
名前はマリだけど、これは、日本で言うところの「ポチ」「チビ」的な名前で、韓国ではスタンダードらしい。
マリと初めてあったのは韓国の当時彼氏だった旦那さんの家だった。いきなり仕事になった彼を二人で待った。
でもマリは私がキライだったと思う。全く近寄ってこなかった。
夜中にトイレに行ったら、その隙に私が寝ていた場所を占拠。
私は寝場所がなくなった。
韓国に行くと会うけれど、マリは無視(笑)
韓国から関空に来たとき、迎えに行ったら、ず〜っと鳴きっぱなしで、本当に困った。遠路はるばる来たんだから仕方ない。
当時彼とマリは大阪に住んでいた。私が散歩に連れて行ってたので、韓国時代とは打って変わって「散歩のおばちゃんだ!」と喜んでくれた。
マリは韓国で生まれ育ったから、韓国語でしつけられていた。でも日本にきたら日本語も理解してバイリンガル犬になった。
大阪でマリを飼えなくなった彼の変わりに、うちでマリを預かることになった。ちょうど我が家も引っ越して新しいマンションに行くことになったので、そこでマリも一緒に暮らす事になった。
彼は週末だけうちに来るようになったけど、その時マリに「ここで暮らすんだよ」と話てからマリは私が家の主だと理解したのか、ますます私に懐いてくれた。
そうこうしているうちに入籍して一緒に暮らすようになったけど、マリの家族の順位は変わらなかった。
皆から愛されて、可愛がられたマリ。
韓国では独りでお留守番が多かったマリ。
でも日本に来てからは毎日誰かがいて、いつも膝の上に乗ったり、一緒に寝たりしていたから、寂しくなかったと思う。年取ってからの日本は馴れないこともあってしんどかったかもしれないけど、寂しくはなかったはず。
そして家族の一員として、いつも皆を癒してくれた。いびつな家族だったけど、マリがいたから丸くまとまっていたと思うと本当に感謝しかない。
あの日は本当に辛かった。
亡くなる二週間前に初めて発作を起こして死にかけた。
すぐに病院に連れて行ったが先生から「いつ亡くなってもおかしくない状態です。腎臓の数値も悪いし、どうも脳腫瘍が出来てるから真っ直ぐに歩けないんだね。」といわれ「延命はしないでください。ただ少しでも楽にはしてあげたい。」と言った。
毎日自宅で点滴することになり、病院でやり方を教わって練習した。
マリは普段と変わらない様子だったけど、点滴をする私は辛かった。
ご飯はドロドロの流動食にして、口に入れて食べさせても、食べる量が減っていた。
夜中に起きて苦しそうに咳をしたり、鳴き出したりして心配で眠れない日が続いた。
まだまだ続いたらさすがに体力と気力の限界がくるな…と思いつつ介護をつづけた。
ちょうど長女が東京から夜行バスで帰った日だった。
朝早く帰ってきた長女を待っていたかのように、彼女の顔を見てから、いきなり発作がおき、その時がきた。
マリ❗️
全員で名前を呼んだ。
でもマリは戻らなかった。
病院に連れていき、亡くなったことを確信した。
「先生は最後の発作で意識がなかったはずやから、痛いとか、苦しい思いはせずに、楽に逝ったと思います。」
と言われ少しホッとした。
痛い点滴を我慢して頑張ってたから、あれ以上辛い思いはさせたくなかったからだ。
すぐに葬儀をしてくれる場所を見つけて、翌日にお葬式をした。
小さい会場だったけど、おかげでアットホームで、心行くまでゆっくり別れることができたのは、ほんとうにありがたかった。
骨になったマリと一緒に家に帰った。
午前中にマリを見送り、午後から出勤するとき、心の中で感謝した。
マリのおかげで、家族が仲良く、癒されながら過ごすことができたからだ。
空をみながら「ありがとう。どうかあちらでも元気でね」とつぶやいてフッと空をみあげたら、
マリが走っているみたいな形の雲が目に入った。
あ❗️マリや❗️
と思い携帯のカメラで写したが、形はくずれていた。残念と思いつつ、仕事にいき、帰宅してから娘たちに、昼間のできごとを話ながら写真を見た。
娘が「あ、マリがいる❗️」
と喜んでいる。慌てて私もみたら、私が見た雲よりもっとハッキリとマリの姿があった。
おもわず泣けた。
あー、マリはちゃんと虹の橋をわたって天にいるんだと確信した。
沢山の幸せをありがとう。マリのおかげで本当にたくさんの思い出ができたし楽しかったね。虹の橋の向こうで楽しく過ごしてると信じてるよ。
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