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漫才の定義って?漫才の歴史とこれから

 おはようございます。ぷかおです。先日M-1優勝したマヂカルラブリーが漫才なのかどうかが物議をかもしていました。もちろん、漫才で間違いないのですが、正統派漫才の形骸化を危惧したり、漫才の本質を疑問に感じる人が多くいるそうです。そこで、ここで今までの漫才の歴史と、進化する漫才のシステムを見比べながら、漫才の定義とは一体何か探っていきましょう。



漫才の定義

 国語辞書に掲載されている一般的な漫才の定義とは、

 二人の芸人がこっけいなことを言い合って、客を笑わす寄席演芸。

次に、ウィキペディアでは

 2人ないしそれ以上の複数人による、笑いを企図した演芸・話芸の形式。

そしてサンドウィッチマン伊達はこう語りました。

 センターマイクに向かって舞台袖から出てきて『どうも』と始まれば、それは漫才。漫才の定義なんて、それくらい。漫才と言うのは………みたいな、そんな難しいもんなんか無い。面白ければそれで良し。

こうしてみると三者三様ですね。重要になるポイントは、辞書にある「二人の芸人が」「言いあって」「演芸」という三点でしょうか。辞書を書いている人は別にお笑い専門家でもありませんから、一般的な考えといっていいでしょう。もちろん、これは古典的なイメージによるものですが、間違いとも言えません。漫才が本来二人の芸人のかけ合いによってなされるものだという価値観は多くの人にとって普遍的で、伊達の意見は発展しすぎていると感じる人も少なくありません。

 漫才は、何十年も前から新たなシステムが構築されてきました。その歴史を追いながら、現在の漫才とは一体どのようなものか一緒に考えてみましょう。



漫才の歴史と漫才システムの変化

 当初、今の漫才システムが出来上がる以前、①音曲万才が主流でした。

若き頃の内海桂子・好江

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万才(当時の表記)といえば、舞台衣装は和装で、弦楽器や鼓を使って音楽を演奏し、それに合わせて歌い、その曲のつなぎとしてしゃべりを入れる。このようなシステムが最初でした。その後、その名残として歌謡万歳なんてものも生まれました(横山ホットブラザーズ・かしまし娘など)。今や楽器を持ち込むのはNGだなんて声もあがりますが、漫才の起源が歌ネタだったことは無視できません。

 そして、今の②しゃべくり漫才が生まれたのは、横山エンタツ・花菱アチャコが背広を着て、語りをメインにした笑いを創始したのが始まりです。

横山エンタツ・花菱アチャコ

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この二人がしゃべくり漫才の大きなムーブメントを生み出しました。その後、漫才ブームが起こるのはだいぶ先で、1980年代。ツービートや島田紳助・松本竜介などが今のしゃべくり漫才のベースを建設しました。

 ここで、しゃべくり漫才の種類について見ていきましょう。しゃべくり漫才の特徴は、突然話題を変えることできるほど自由度が高く、テーマを一つに決める必要がありません。細かいネタがたくさんあるほど無限に続けられます。

・エピソード型漫才
 「こないだこんなことがあって...」というように自分の経験談を語るように展開するのが特徴です。矢野兵頭、海原やすよ・ともこはこのスタイルをで一貫していますよね。中川家も以前はエピソード型のネタが中心でした。エピソード一つ一つにオチが必要になります。

・けんか漫才
 相方同士でお互いをけなし合うスタイルです。2019M-1の見取り図はこれでした。ディスりですが誰でも笑える表現にするよう注意しなければなりません。相方に対する難癖を交互にたくさんかけあうのが面白いです。

・キャラクター漫才
 キャラクターといっても、ぺこぱやアイデンティティみたいなキャラ芸人とは別ですよ。たとえば、ボケが田舎出身だったらその田舎いじりに終始する。ボケがハゲだったら、ハゲいじりに終始する。同じいじりの繰り返しになるので、途中で話題を変えても不自然にならないという仕組みです。最近はあまり見ないですね。

・時事漫才
 これはエピソード型の派生になるのですが、違うのは観客が情報を共有していることが前提になることです。みんながその時事を知っているうえで笑いを取らないといけないので、時に説明的になってしまいます。ナイツや爆笑問題が有名です。

そして、しゃべくり漫才から生まれ、定番になったのが③テーマ型漫才。しゃべくり漫才と同じものとして判定されることが多いです。

・テーマ型漫才
 何か最初にテーマを一つ決めて、そこからさまざまな角度でボケとツッコミをかましまくります。出番が長い時もテーマを変えずに、その時間に合わせて漫才をすることも可能。そのテーマからネタの広がりを作り上げていくので、テーマ選びはとても重要になります。チュートリアルやかまいたちなどがこのスタイルです。

 その次に定番化したのは、④コント漫才です。コントにもいくつか種類があるのですが、その中でも舞台設定だけを用意して様々なボケを展開させるコントがベストマッチします。コントならコントでやれという意見もたまに見ますが、実は漫才でないと不可能なことがいくつかあります。

《コント漫才でしかできないこと》
・舞台設定の移動
 たとえば、「デート」のネタだったら、待ち合わせして、場所を移動して、最後に夜景を見るなんてことは漫才でしか不可能です。コントでやるときセットを変更しなければなりませんから、ものすごくテンポが悪くなるうえに、コントである必要性が破綻します。短時間の間にたくさんの場所に移動できるのが漫才のアドバンテージです。

・やり直し
 「コンビニ店員」のネタだと強盗が入ってくるのは定番ですよね。しかし、店員役のボケに対して強盗役がツッコむと、「もっかい店に入るからちゃんとやってよ」と続きます。ボケを変え続ければ、何度でも導入部分だけを繰り返すことだってできます。これもコントでは不自然です。

・道具いらず / 会話のみのコント
 漫才は落語と一緒で、道具を使わずに身振り手振りで表現するところに良さがあります。観客の想像をふくらませ、笑いがより能動的なものへ変化します。さらに、そもそも二人がずっと会話するだけのネタはコントでやっても面白くないですよね。たとえば、スリムクラブの立ったままでゆったり話す雰囲気は、コントよりも漫才のフォーマットによりフィットしていますよね。

 そして、今回優勝のマヂカルラブリーや霜降り明星、スーパーマラドーナ、2020の錦鯉など最近の流行になりつつあるのが、⑤実況型漫才です。このフォーマットはコントでは難しく、漫才でなければ絶対に不可能です。

 実況型漫才...ボケ:一人でコントorボケの連続、ツッコミ:実況しながら適宜ツッコミ
 私が知る限り、流れ星のギャグにアフレコする漫才が最初である気がします。最近だと、スピードワゴンもこのスタイルに含まれるかも。漫才の形として新しいのは、二人の言葉による掛け合いが生まれない点にあります。だからと言って、漫才でないとも言い切れません。ボケとツッコミは別次元にいて、ツッコミは観客に寄り添う形になります。そのうえ、ツッコミは別次元にいるボケにいつでも介入できるし、ボケはいつでもこっちに戻ってこれるし、不思議な形なんです。つまり、漫才というフォーマットでしか生まれなかったといえるでしょう。

 あとは、ジャルジャルのオリジナルゲームのような漫才や、古いものだと寸劇漫才、身振り漫才などいろいろなシステムが生まれました。漫才は多くの可能性を示し、これからさらにその進化を遂げる可能性を秘めています。漫才の定義に関して言えることは、時代によって全く異なることです。古くには、そもそも漫才の種類すら異なるわけで、漫才のイメージも大きな差があります。特に、漫才は種類によって別物みたいなところがありますから、どれかを排除しようなんて考えは捨てるべきです。概して歴史を振り返ると、漫才でしかできないことこそが漫才といえるように思われます。



漫才の役割

 漫才の役割は簡単に言えば、ボケ一人、ツッコミ一人で構成されます。しかし、今回は漫才の定義について考えるので、ほかにどんな役割わけがあるのか探りましょう。

 まず、Wボケ・Wツッコミで、どちらか一方しかいないという役割わけです。似ているものといえば、笑い飯はボケ・ツッコミ交代制とでも言いましょうか。交互にボケとツッコミを繰り返すという仕組みでいくつものネタを作り、私たちを楽しませました。それから、まんじゅう大帝国も時にWボケと評されることがありますが、ツッコミ役とボケ役はっはっきりしています。ここでいう、どちらか一方しかいないというのは、それとはちょっと違うかも。

 皆さんはマシンガンズを覚えていますか?エピソード型漫才なんですが、二人同時にツッコミを入れて毒舌をかます漫才が特徴的です。この場合、ボケというより、ツッコミのふりとなる部分も二人でやるため、ボケ役が存在しません。しかしながら、漫才として成立していると思いませんか?

 それから、先日の敗者復活戦で見たニッポンの社長のネタが衝撃的でした。辻とケツに二人からなるお笑いコンビですが、そのうちケツがボケとツッコミの両方を兼ねている(?)斬新すぎるネタでした。普通の漫才師がこのスタイルをやってもただの頭のおかしいやつになってしまうので、彼らにしかできないパンドラの匣のような漫才です。

 漫才はツッコミとボケに二人からなるというのももはやステレオタイプかもしれませんね。M-1の準決勝には我が家、そして大人気のトリオ四千頭身も出場経験があります。ツッコミ一人、ボケ二人というスタイルですね。決勝戦で言えば、ザ・プラン9も出たことがあったっけ。超新塾も漫才ですし。M-1予選の出場史上最大人数は10人を超えるそうですし。その大人数でどうやって漫才したのでしょうね、気になります。ちなみに、現在ではM-1の出場規定で6人以下と制限されています。



漫才の型

 漫才の型は、漫才師それぞれによって違います。先ほど種類分けについて書きましたが、型についてさらに多くに分けられ....全部を説明すると長くなってしまうので、紹介についてはまた後日書きます。
 どんな漫才について書くかだけ、候補を挙げておきましょうか。

・ハライチ:ムチャぶり漫才
・ミルクボーイ:リターン漫才

・オードリー:二重ツッコミ
・ぺこぱ:ツッコミ方改革

・イシバシハザマ:ハモリツッコミ
・ウーマンラッシュアワー:ぼやき漫才
・とろサーモン:すかし漫才
その他...

漫才という形式の中だけで、いつも新たな発見があります。中でも特に、新たな型を創造するのは、並大抵のことではありません。漫才の型は、新感覚をもたらすお笑いの可能性を示しています。

 


まとめ

 以上、漫才の定義について検討しました。定義は、辞書・ウィキ・芸人がそれぞれ違うように見る人によって大きく異なります。しかし、それは漫才システムや漫才における役割が多岐化している背景があります。世代によって、または見てきたお笑いの種類によっても、漫才の定義が変わります。これらのことから、漫才の定義はひとつの固定されたルールとして存在するわけではないということがわかります。ゆえに、漫才の定義なんて存在しないといっても過言ではありません。それほど定義というのは、可塑性と個人差が強いです。

 それが漫才であるかどうかは、披露する漫才師本人が決めればそれでいいと私は思っています。他人がどうこういったところで、本人が「これが漫才だ」と断言すれば、それでいいと私は思います。M-1にテツandトモが出たときも、キャッチフレーズとして「現代版音楽漫才」として紹介されました(そのときに場違いだと叱られたのですが...)。つまり、それが漫才かどうかは本人次第のモチベーション次第でどうにでもなるものだと。もしラッスンゴレライが「自分たちは漫才をしている!」と言い切ってM-1に出場するなら、それは漫才として正解だと思うのです。

 最もよくない事態は、第三者同士で「これは漫才じゃない」「なざぜ新しいスタイルを認めないのか」と価値観を押し付け合うことです。前者も後者もよくありません。定義なんてものは人によって異なるから、言い争ったところで何も解決しません。争いの中にぶち込まれる漫才師本人たちが惨めに思います。今回のマヂカルラブリーの騒動で言えば、野田も村上も「漫才です」と断言している時点で、漫才かどうかなんて本当は誰も口出しすべきではないのです。


 以上、漫才の定義についてでした。ここまで読んで下さり、ありがとうございますた。これからも大好きなお笑いについて書いていくので、よろしくお願いします。




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