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家に、溺れるナイフの大友がいる

溺れるナイフをご存じだろうか。
ジョージ朝倉による、最高破壊力大傑作青春少女漫画だ。
とにかく四の五の言わずに読んでほしい。前半では十代特有のひりつきに胸がじりじりと焦げてしまうし、中盤から後半にかけては闇と光が暴力的に絡み合って叫びだしたくなる。
作品自体のエネルギーがすごい。なにを食べたらこんな曼荼羅みたいな漫画が描けるんだろう。

話は東京から転校してきた主人公の夏芽と、資産家の息子コウちゃんを中心に展開する。
ところが、この夏芽は美しいだけで、ちっとも魅力的じゃない。少女漫画特有の、「読者に愛される要素」がひとつもない。優柔不断で、自己顕示欲が強く、好きな男にほいほいと流される。
コウだってそうだ。少女漫画にあるべきヒーロー的要素がなにひとつない。主人公の想いをそっと汲むであるとか、悲しいときにふらっと現れて核心をついたやさしい一言をかけるとか、上着をふぁさするとか、まるでない。
りぼん漫画スクールを読んで育った私からしたら大事件である。
「主人公に好感が持てない」「男の子に惹かれない」何度こんな文言を読んだことでしょう。
けれど、それらすべてを凌駕するのが溺れるナイフだ。
十代のリアルと、闇と光と栄光と影とトラウマとしがらみとがすべて複雑に絡み合って、それぞれのキャラクターが痛みを伴うほど切実に、大切に、誠実に描かれている。
一度読んでしまったら、自分の漫画史から溺れるナイフを外すことはきっとできないはず。


さて、前置きが長くなったけれど、私が今回特筆したいのは大友だ。
コウちゃんの親友である大友。
物語の中盤で夏芽と良い仲になる大友。
大友だけがこの漫画の全編を通して、ずっと少女漫画を貫いている。
大友の存在がこの緊迫した物語のオアシスだ。私たちは大友にきゅんとして、大友に恋をする。コウちゃんに疑似恋愛はできそうにないけれど、大友にはたぶん述べ千五百万人くらいが悩殺されている。
大友はいじらしい。大友は太陽だ。大友は夏芽の傷ついて疲れ切った心をすべて包んでくれる。包容力の人、大友。夏芽のことを大好きな大友の横顔ったら、もう、悶える以外なんかある?ないですね。

大友が愛しくて、夏芽の一挙手一投足に喜ぶ大友が愛しくて、たまらなかった。夏芽がやっと笑っていて、嬉しかった。

けれど、どれだけ私が大友に悶えて、大友に胸を焦がしても、大友は夏芽が大好きだし、大友は十代だし、私は三十代だし、大友は紙の向こう側だし(kindle課金なので正確には画面の向こう)、私は三次元だし、あらゆることが遠すぎる。大友は私のもとには永遠にやってこないのだ。

はあ、とため息とともに隣を見ると夫が立っていた。
大友のことを考えている間にいつの間にやら朝になって、いつの間にやら私は台所で朝食の支度をしていた。習慣ってこわい。
隣のひげ面の男を大友だと仮定してみる。
虚無感でいっぱいだった胸が少し暖かくなった。悪くない。よくよく見れば大友に見えなくもない。幸い私は極度の近視に強い乱視が混ざっている。
眼鏡を外せばほらこの通り。
もしかしたら、大友…かもしれない。
肉体を持った大友が、今そこに。

試しに「大友」と呼んでみる。
「え、なに。おおとも?」
あろうことかまんざらでもない顔をしていた。夫、大友の素質、ある。
前日から私がスマホ片手に「大友!!いいやつ!!」と叫んでいたのを夫は聞いていたので、
「大友ってめっちゃいいやつなんやろ?!」
と食い気味だった。大友かもしれない。
「大友、洗面台変わって」「大友、ちょっとこれ持ってて」頭に大友とつけられることに夫はなんら抵抗がない様子だった。なんならいっそ喜んでいた。
その日の夜には、彼はすっかり身も心も大友になり、「大友、ビール飲むわ」と自ら大友を名乗っていた。
夫、大友だった。
どういうからくりなのか機嫌をすっかり良くした大友は、寒い中牛乳を買いに行ってくれたし、あたたかいミルクティまでいれてくれた。
牛乳を買ってきてくれただけでもありがたいのに、あのいじらしい大友が寒い中買いに行ってくれた牛乳だと思うと、牛乳がよりいっそう尊い。ミルクティなんて、後光が差していた。

夫のことは結構好きだし、夫婦関係もおおむね良好だ。
だけれど、やはりどうしたって、出会ってから干支をひと回り以上している我々に、「牛乳買ってきてくれた…?きゅん」は、やってこない。
ミルクティをいれてくれてありがとううれしいな、はあるけれど、「え、これ…私に…?きゅん」も、やってきやしない。
横顔を見るだけで、胸が締め付けられることもないし、笑った顔を見て心がカーニバルになることだってもちろんない。

それが、彼を大友と呼ぶだけで牛乳もミルクティもまるで命が宿ったかのように輝きはじめる。こんな世界があったなんて私、知らなかった。

依然、夫は我が家で大友を守り抜いており、昨日も頼んであった所用を大友は忘れてしまったのだけれど、「ごめん、大友忘れちゃってさ」と言われたら完全にチャラにできた。だって、大友だし。

夫は大友だし、kindleの中には溺れるナイフがぎっちり詰まっている。メンタルが安定して仕方ない、そんな一月。
寒いけどへっちゃら。

また読みにきてくれたらそれでもう。