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テレビもねぇ、ダチもねぇ、ツイッタそんなにやってねぇ。

 テレビも無いしSNSもほぼやらないしYou Tubeも見ないしネットニュースも見ないし家族と疎遠で友人恋人もいないしだから、「来月、隕石落ちてきます」とかいうニュースに、隕石落ちてくるまで気が付かなさそうな私ですこんばんは(^-^)

 2年前くらいまで、自分のことを寂しがり屋だと思っていた。大学時代に一人暮らしをしていて、休みは2日間くらい他人とほとんど喋らないこともよくあった。でもそれだと2日目の夜くらいになんともソワソワして、誰でもいいから誰かと話したくなる。子どものころからしばらく他人と会わないと似たようなソワソワ感があって、いつからかそれを「寂しさ」と呼ぶようになった。そして、たった2日間で寂しくなるのだから、私はずいぶんな寂しがり屋だと自認していた。でも今になって考えると、そのソワソワ感は単に不安であって、寂しさではなかったんだと思う。私は物心つく前からいつも大人の顔色を窺っていた。でも子どもの頃も今も、周囲の大人がどのように自分を見るのかを想像するのが下手くそだった。だから実際に人に会って、社会的な存在としての「私」が逸脱していないか、まだ周囲に許されているか、相手の反応から常に伺い知っておきたかったのだと思う。

 去年、一昨年のうちになんやかや色々、人生の転機というか人生観のコペルニクス的転回というか、価値観がひっくり返って、今は他人からどう見られるかという部分に過敏にならなくなった。そしてそうなった途端、1週間でも2週間でも他人と会わないで平気になった。今年になって受けた心理検査でも「対人希求性が低い」という臨床心理士のお墨付きをもらってしまった。やはり、私が寂しさだと思っていた感情は、実は違ったようだ。少なくとも、他の人たちが一般に思う「寂しさ」とは違うのだろう。

 感情って、人と人の間で共感し合ったり、色々なコンテンツで表現されていて、私たちは小さいころからそうゆうものに沢山触れている。そして自分や他人の感情に、あたかも詳しいかのように勘違いしてしまう。でも冷静になって俯瞰してみると、私の抱える感情に他の人たちがどんな名前を付けるのか、分からないことがある。そして分かっても、その名前は本当に正しいのか、含有する意味が同じなのかはめったに確かめようがない。私が30年近く勘違いしていたみたいに。みんな一体どうやって、自分がその時々に持つ心の色に、これは「嬉しい」、これは「楽しい」、これは「怒り」、これは「悲しい」とか、知っていくんだろう。まぁ、私もかつて自分の感情にそうゆうラベリングをして会話をしていたわけだけど、今になると私がそのとき友人たちに語った感情が本当だったのか、かなり怪しい。

 だからこれからも、今まで当たり前に分かっていたつもりの自分について、「いや全然違いましたやん!?」ってなることは多いのかもしれない(笑)それはそれで楽しい気もする。気持ちに余裕があるときは。私はこれからも一人レリゴー(Let It Go)で生きていくつもりだけど、隕石落ちてくるニュースに出遅れるのはちょっと嫌だな…。情弱な私に、週1で主要ニュースをピックアップして知らせてくれる、情報パトロンが欲しいです(*'ω'*)ぐない!