「あっ」という間に過ぎるキセツの中で

観光地ならどこでも活気がある訳でもない。
例えば某商店街の『ドサン』という店は
一軒家の1階で営業している土産屋で、
現在従業員は先代店長の息子だけ。
小倉は明るく人気者だった父と対象的に
陰気で、1日の大半を寝て過ごす男だ。
ここ2,3年は商店街を出てすらいない。

そんな彼をある友人は心配していた。
「趣味短歌て。28歳にして隠居生活かよ。」
翼は挨拶の代わりに皮肉を言う男である。
小倉は慌てて手帳をたたむ。
「短歌じゃねーよ。」
「ポエムか。あいかわらず気持ち悪ぃ」
そう言いながら勝手に椅子に腰掛けた。

「だがな小倉、いつまでもそうしてると
お前ろくでもない大人になるぞ。」
「もうすっかり大人ですよ」
「いや違う。俺は認めない。」
翼は時々こんなぐあいだ。
彼は小倉の花嫁候補を紹介に来たのだった。
当然小倉は断ったが、
最終的には翼に押し負けてしまった。
小倉は昔から肝心な時に勝てない。


落ち葉が似合う午後の公園(池付き)。
いやいやのお見合いだったはずが、
マヒロは小倉にとって悪くない相手だった。
見た目が若干怪しくはあったのだが。

前髪はバチッと揃えられて分厚く、
首まわりや袖に草花のような金の刺繍のある
赤のワンピースを着ていた。
裾と結んでいない長い黒髪が揺れる。
「愛を拡散するって書いて『愛拡』です。」
すごい、強そうな名前なのねと小倉が言うと
彼女はケタケタと笑った。
小倉は日本妖怪のような笑い方だと思った。
そして、それをカワイイと思った。

恋愛感情がないとサラッと言ったもので、
彼女自身も小倉もつい笑ってしまった。
翼にあわれまれた者同士ということだ。
二人とも余計なお世話だという意見で合致。
そしてお互いに甘い気持ちはないものの
好印象であった。
後ろを歩いていた翼がもう友人代表スピーチを考え始めていたほどである。

小倉は翼にはバレないようにしていたのだが
実は珍しくそわそわしていて、
一人になった後で軽くその場で飛んだり
慣れない鼻歌や口笛をしてみた。
そしてふわふわした拍子に人とぶつかった。
「あ、ごめんなさっ…」
返事はなかった。
小倉が振り返るとそれは青年の背中だった。
ノラだ。と小倉はわかった。


『ノラ』というのは小倉が勝手に心の中で
そう呼んでいるだけで、本名は多分違う。
ちなみに、『野良』という意味である。
彼はほぼ毎日商店街の入口の脇にいるのだ。
黙っている。黙って立っている。
皆がいないものとして扱うのは彼を
不審がってるからだろう。
それか、「あいつに話しかけてはならん」
という電波を送り合っているのか。

小倉はしかし、ノラを無視しきれない。
自分と同じものを感じ取ってしまう。
小倉は彼が時々自身の耳のそばで親指と人差指をこすっていることはもちろんのこと、
いつもチャックを首まで上げて着ている
白い線の入った汚れた灰色っぽいジャージが
実は濁った水色であることや、
目と耳と首が見えないようだけど髪のあいだから見えることがあることも知っている。

小倉から話しかけたことはもちろんない。
でも小倉は指をこする理由を知りたかった。


2回目は小倉とマヒロの二人っきりで、
デートという雰囲気がただよい始めていた。
半地下の喫茶店の窓から見る雨に
小倉はなかなか悪くないな、と感じた。
彼がそんなことを思うのはいつぶりだろう。
今までもなかったかもしれない。

マヒロは前と同じ服装をしていたが、
黄色がかった照明で照らされて、表情も
前より明るくなったように小倉には見えた。
小倉はノラの話をした。
マヒロは「たしかにソレは私に似てるね」
と言って笑った。
笑って、頬のそばかすが上下に流れたのに気付いた時、小倉は、近くにいるなと思った。ジャズがかかっていた。
「あっ」
この曲。なんだっけな…と言った彼女の
音楽の聞こえる方を探す目は一重だった。
小倉はホットミルクを冷ましながら
それを見ていた。
ずっと小雨だった。


「おにいさんオカネ頂戴よ、お金。」
ノラは『ドサン』に来るなりそう言った。
突然だった。
「俺のこと…知ってんの?」
ちょっと。てか知ってたら何?
そんなことを言いながら座って、
彼は環境に順応し始めていた。

そして2日に1回は入店する常連客になった。
やっぱりヒマなんだなと小倉は思った。


季節を裏切るように日が差していたのに
風は吹いて、肌寒さだけ残っていた。
マヒロは前回までとはうってかわって
薄いコートとぴっちりしたズボン姿で
小倉は三度目の正直ということかと思った。
つまり曖昧な関係を続けられる訳じゃ無い。
二人は仮にも結婚するのだ。

小倉は特にそのキツくむすばった髪に
彼女の変化を感じてしまって、
薄情だと自分でも意識しながらも
マヒロへの思いはサーッと遠のいていった。そこからもう戻ってくることはなかった。


こんなに騒がしい夜は
小倉にとってはいつか分からないぶりで、
ノラにとっては割と毎日がそうだった。
どういう弾みでそうなったのか
本人にも分からなくなっていたのだが、
小倉は来たこともない繁華街の狭い道を
ノラと二人で歩いていた。

小倉は己の生存確認のために息を吐く。
酒臭かった。
それも普段触れない匂いがした。
「何杯ぐらい飲んだら…」と漏らすと
ノラは面倒くさそうに、知らない。
そんなのいちいち数えてないと言った。
小倉はロレツが気になってノラの顔を見た。
ほんのりと赤かった。
酔いと街のネオンが混ざっている。
服装はいつも通りだが、街も同じくらい汚い
ので普段の不審者感は軽減されていた。
「あっ」
そうノラが言った先には、なんとも不気味な
黒塗りのドアがあって、
騒がしい音楽を外にまで響かせている。
小倉は先を読んでうんざりした。
案の定ノラは入ってみようと誘った。
小倉はかたくなに拒否する―

はずだった。
ちらっとそらした目にマヒロが映った。
その時小倉は、なぜか
『見られてはいけない』と強く思った。
「…何、」とマヒロに我に返らされた小倉は
いや、いいんだと言ってドアを開けた。


割れない光のくす玉とバーカウンター、
流れる穏やかじゃないがアツくもない曲。
人は、もっと踊ってるのかと思ったが、
皆意外と壁づたいに固まっている。
昼休みの教室みたいだと小倉は思った。
とりあえず水でも飲もうと言ったが、
その声は独り言になって空気に消えた。
ノラは中央で、もう無茶苦茶に踊っていた。
おどっていた             
全てを忘れさろうとするように        彼はおどっていた          
視線を惹き そして無視するように 
光と一緒におどっていた      
自分ごと投げ飛ばしてしまうように  
両手を広げ 髪を流しながら    
笑いながらおどっていた      
清々しかった           
回る姿はまるで春の風のように
店を出て、外の階段に座っていた小倉は、
そこまで書くと手帳を丁寧にしまった。

雲に色が付き始めている。
夜が過ぎて少し明るくなっていた。
「いつか、」
と眠っていたはずの声が聞こえて振り返る。
ノラは遠い目をしていた。
「おにいさんってったけど多分
僕たち、同い年。」
小倉は驚いたが、どうでもいいとも思った。
全ての事実が意味をなさない時はある。

ノラは小倉に名前が『元気』だと教えた。
そしてヒドいと言った。
「だって自分の感情まで決められて…」
それは不満と諦めを抱えた笑いだった。
ノラは店はうるさけりゃいいってんじゃない
と言って、両耳で指の摩擦を聞いた。
小倉はそれを見ていた。
手帳を取り出して、『春』を塗りつぶして
その下に『秋』と書いた。


9時間後か33時間後かも分からなかった。
小倉に分かったのはただ
電話がかかってきたこと、
いつの間にか2階の床で寝ていたこと。
そして、電話の相手が翼であること。
マヒロに振られてしまったこと。

翼が怒り、呆れていることも声から察した。
しかし、振られた理由は小倉には分からず、
分かる人に聞こうと思ったが
翼にもわからないようだし、マヒロも
「なんでか分からない」と言ったという。

数時間後の小倉には、分かる気がしたけど…
分からないままにしておこうと結論づけた。

ノラが『ドサン』に現れなくなった。
親にカンドウされたらしい。
小倉がそれを知ったのは本当に後々で、
昼寝中に聞こえた井戸端会議が情報源だ。
最初は現代にそんなことする家があるのか
と思ったが、聞き進めていくと
ノラ(=元気くん)の家は金持ちのエリートで彼自身某有名大学の大学院卒らしい。
「それでもあんななっちゃうんだからさー」
「わかんないねーホント。」


一年ぐらい経った頃だろうか。
『ドサン』はあいかわらず閑散として、
そしてやはり黒字続きだった。
小倉は未だその理由にピンときてなかったが
その日もなぜか客が入ってきて、
小倉が中途半端にこねて放っておいたら
そのまま固まってしまった紙粘土を
ピアノでも弾きそうな格好をした少年は
なぜか暴れるほど駄々をこねて
落ち着いた地雷系みたいなおちついた母親は
あっけなく折れて1500円を払った。

小倉は満足感に浸ろうかと思ったが、二人の格好がひっかかって気持ちが抜け出した。
店の入り口まで歩いていって顔を出す。
そこには予想通りの行列と看板があった。

ノラの両親は死んだらしい。
理由までは盗み聞きでは辿り着かなかった。
「だって自分の感情まで決められて…」。
小倉はノラのそんな言葉を思い出した。
もしかして、と小倉はその日中人影にノラを探したがどれもハズレだった。


いつの間にか始まる次の日がたまにある。
小倉は誰にも見せない顔で、
顔を洗い、納豆を混ぜ、そしてシャッターを開けた。
「あっ」
足元に青いリュックサックがあった。
その下にはノラがいた。
地べたに寝っ転がって小倉を見ている。
小倉はやっぱり前髪が邪魔そうだと思った。
ジャージは一層灰色がかっていた。
小倉がわざとらしく平静を装って
「いらっしゃいませ」と言うと、
ノラは「ハッ」と言った。

それはいつかの乾いた風の音だった。


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