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#12 占有か過失か-不法行為法

本日のテーマは、不法行為法となります。

ちなみに今回より、本ブログの「,.」という表記は「、。」に変更します。たまに「,.」の表記の本もあり、なんとなくそれで始めたのですが、先日、文化審議会が取りまとめ、文部科学大臣に建議した「公用文作成の考え方」の中では、読点は「、」を用いることが原則とされています(「。」はもともと「。」でしたが)。先日、ニュースにもなりました。

さて、前置きはこれくらいにして、まず木庭先生の言葉から、日本の不法行為法を概観し、またそれを批判する部分から引用してみましょう。

日本において不法行為法は、主として単一の条文で運用され、そこには「故意または過失」という単一の要件が規定され、過失責任主義が一般化される。他方、原状回復や差し止めには極めて消極的であり、あれだけ物的に志向するにかかわらず金銭賠償に甘んずるのは一見不思議である。明らかに、物的に思考することと占有で思考することは違うのであり、占有を元来は生命とする不法行為法において「まずは占有を」という思考が存在しないのである。事実、占有侵害の基底的要件は論じられない。それを違法性に置き換えることによってすでに失うものがあるが、しかしそれさえ回避して「権利侵害」に固執し、これでは明らかに狭すぎるというので「法律上の利益の侵害」に逃げたが、これでは何のことかわからない。単なる事実上の因果関係=損害発生と権利侵害の中間に階梯を設けることに失敗している。権利と事実の中間といえば昔から占有と決まっているではないか。」(『現代日本法へのカタバシス』p.269).

口調は糾弾ともいえるほど厳しく、日本の不法行為法の現状に疑問を呈しています。

さて、そのような不法行為法ですが、そのビックリ箱の中を覗いてみたときに、現れてくるのはーあるいは、現れるべきなのはー「占有」なのでしょうか。それとも、過失責任主義という言葉にもあるとおり、「過失」なのでしょうか。

今回もアメリカ法の入門書シリーズの一つである、樋口範雄著『アメリカ不法行為法』(第2版,2014年,弘文堂)との対抗を手掛かりに,木庭ワールドを見てみたいと思います。

ちなみに、先の引用で言及されている「単一の条文」とはもちろん民法709条ですので、以下に引用しておきます.

(不法行為による損害賠償)
第七百九条 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

本ブログを書きながら、民事責任法の中には契約責任(法)もあり、また不法行為の中にもいくつかの成立要件があることから、契約責任との関係も含め、不法行為といっても一度では検討しきれない広汎な論点があることに気づきました。

したがって本日は、権利侵害(占有侵害)や過失を軸として、ごく基本的な論点をざっと瞥見するものとなります。契約責任との関係や厳格責任(無過失責任)については、次回以降に取り上げたいと思います。

法と賠償は「水と油」?

法は交換(エションジュ、échange)を嫌う。木庭先生の中心的な主張であって、命題です(『現代日本法へのカタバシス』p.202)。

主張であり、命題であるというのは、本当に立証されているか、論証が必要な言明という意味です。必ずしもそうではない、という問題提起(いわばdevil's advocate)をするというのが、本ブログの一つのテーマでもあります。

あるいは、そのような命題が成り立つ世界があるとしても、そのような命題が成り立たない世界もあるーユークリッド幾何学に対する非ユークリッド幾何学の存在ーと言い換えてもいいかもしれません。その論証についてここに記すには余白が狭すぎる…(フェルマーの最終定理?)。

横道に逸れてしまいました。戯言はさておき、そのように法を捉える木庭先生の立場からは、交換(賠償)の契機を必然的に伴う「不法行為責任は法源上元来異質な性質を有する。法の基本原理と鋭く対立する要素を包含する。」(『現代日本法へのカタバシス』p.269)ということになります。

「元来」というのは、最初に引用した同じページにも繰り返されています。「占有を元来は生命とする不法行為法」という「元来」にも、距離を取る姿勢が感じられます。むろん、賠償を受け取るときに発生する集団間のやり取り、そこに支配従属関係の萌芽をみて、それを警戒するからです。

とはいえ、ひたすら占有(の保持、保全、回収)によって交換を断ち切り、やり取りを一切拒絶するだけでは、法の社会的要請は果たせません。社会において何らかの報い、やり取り、賠償が要求される場面はありーその背後にあるのは「応報的正義」でしょうかー、法がそのような要請を無視し遮断するだけで事足りるというのは、考えにくいことです。交換を否定するだけでなく、規制するという形であっても、何らかのルールを提供することが、法には期待されるでしょう。

そのような背景からか、ローマ法でも、みずからの身体に対する賠償の請求は「傷害(iniuria:イニューリア)」では認められることとなります。「同一身体の頭と手の距離」であれば、集団が入り込む余地がなく、交換も複合体を呼び込むことがないとされるからです。

いずれにしても占有侵害という要件が幹とされます(その妥当性は、後で改めて取り上げます)。

他方で、社会や経済活動が複雑化するにつれて、単純な占有だけではない概念装置が動き始めます。領域における生産に都市の信用(資金)が入り込み、領域の耕作地や農場に対して、下部と上部という複合的な占有が観念されるようになります。そうした社会構造の変動を踏まえ、「新しい基体」として所有権という概念が発達します(『新版ローマ法案内』p.128以下)。

ここで注意すべきは、賠償の対象となる占有だけではなく、それに関与する側(加害者)の占有も問題になる、ということです。

占有の構造が二重になることで、不法行為にも農場や耕作者が隣のそれを侵害した場合、当事者同士では通常の不法行為となりますが、その上部に位置する所有者もまた責任を負うかが問われることとなります。監督責任を果たしていたので、過失がない(cine culpa)という抗弁が主張されるようになり、抗弁ではありますが(立証責任は別として)、過失が不法行為責任の要件として観念されることとなります。しかし、あくまで占有の複層化を反映して、限定的に認められる概念であることが分かります。

かかる経緯から、むやみに過失概念を振り回すべきではなく、所有権概念がしっかり働く脈絡に限って認められるべき、ということになります(同148-150頁)。

被侵害利益だけでなく、加害者の側の責任もまた、占有を軸に分析するというのが、木庭先生の特色といえます(『笑うケースメソッド民法』p.205参照)。

「行為の自由の保障」という対抗軸

それでは、このような木庭流の不法行為概念を、アメリカ法のごく入門的な理解を手掛かりとして、読み解いていくことができればと思います。

『アメリカ不法行為法』(第2版、2014年)の「第1章 はじめに」は、連邦最高裁判事であったオリバー・ウェンデル・ホームズの印象的な言葉を紹介しています。

わがアメリカ法の一般原則は、事故から生じた損害は、それがふりかかったところにとどまるべきだということである。この原則は、事故の発生に人間が介在した場合にも適用される。(中略)なるほど、人は、ある特定の行為をしなければならぬというわけではない。行為という言葉自体に、選択の契機が含まれている。だが、人は何かしらの行為はしなければならぬものである。しかも、社会は、この個人の活動によって一般に利益を得る。何らかの行為が必然的になされるものであり、かつ社会の利益になる傾向のものだとすれば、一方で望ましく、他方で行為者にとって必然的なものを投げ捨ててしまうような法政策は、明らかに採るべきではない。(中略)私の行為が他人の脅威となるような性質のものでない限り、当該状況において、通常の合理的な人間なら危害の可能性を予測するような場合でない限り、私に対し、その結果について私の隣人の損害を補填させることは、まったく正当化できない。それは、私が発作のために彼に倒れなかったことについて損害の補填を命じたり、あるいは彼が落雷にあったことに対し私を保険者の立場にすることを強制することが正当でないのとまったく同様である。」(『アメリカ不法行為法』p.2-3)

入門書『はじめてのアメリカ法(補訂版)』p.93でも簡単に紹介されており、「事故から生じた損害は、それがふりかかったところにとどまるべき」というホームズの言明は、すでにご存じの方も多いかもしれません。

アメリカ不法行為法の最も重要な原則は、事故による損害が生じ、事故の発生に人が関与して加害者のように見えたとしても、それだけで関与した人に損害を転化する(損害賠償を命ずる)ことはできないということです。

これは、すでに触れたーそして木庭先生はその範囲を限定すべきとするー過失責任主義を表明しているもののようにも見えます。しかし、過失があるから責任を負うべき、という意味を持つものではないことには注意が必要かもしれません。ホームズはむしろこれを否定し、過失責任主義は、責任限定のための原則で、加害者に責任がないことを原則とする点を強調しています。

その根拠としては、ホームズが示唆するように、人には自由と選択の契機があり、何をすべきかを選ぶのは行為者の自由であって、しかもその自由な行為は、社会に利益や恩恵を与えていることに求められます(注2)。そうであれば、自由な選択によって行われる行為を促進することこそが法の役割であると考えるのです。

アメリカ法では、「権利侵害」や「法律上の利益の侵害」という要件はありません。故意による不法行為、厳格責任(無過失責任)という類型と並び、中心となるのは過失による不法行為(negligence)ですが、そのエッセンスは過失(negligence)であって、それは注意義務(duty of care)違反とされています。negligenceという言葉が意味を違えて二回も登場する通り、まさに過失(negligence)が中心的な概念です(『アメリカ不法行為法』p.70)。

「占有侵害」を核とし、「過失」には二次的な意味合いしか持たない(持たせたくない)という木庭流の不法行為法と、「権利侵害」(ないし占有侵害)という要件はなく、「過失」(注意義務違反)を絞り込むことで行為の自由を保障する(不注意な行為を抑制する)というアメリカ法の行き方とは、明確な対抗関係を示しているように思われます。

占有を軸にすることの含意

不法行為の構図には、被害者と加害者という両面があることには注意が必要ですが、占有を基軸に据えるときには、いかなるインプリケーションがあるのでしょうか。

単純な占有しか問題にならない場合に過失を問わないこと」(『笑うケースメソッド』p.216)という言葉にも現れる通り、占有を侵害した場合は賠償責任を発生させるべき、というのが、不法行為法の主軸に占有を据えた場合の結果です。元来賠償思考を嫌い、傷害(iniuria)から始まって、及び腰で物損一般の賠償を認めること(同p.215)を通過しながら、今度は広範な損害賠償責任を認めるべきという結論に至っているようにも見えます。

人間にとってとりわけ重要な占有は、この精神と身体だ」(『誰のために法は生まれた』p.380)という言い方からは、占有侵害による賠償責任は、どこまでも広がってしまわないでしょうか。

精神的損害に対する賠償責任をアプリオリに認める趣旨であるのか、異なる文脈で語られた言明を組み合わせるだけでは、明確ではありませんが、「法律上の利益の侵害」とは「何のことか分からない」という批判が「占有侵害」にも当てはまらないか、という問題があるように思われます。交換(échange)に一定の限界を設けるためには、ここでいう「占有」の意義を明らかにするべきと思われます。

また、所有権概念の浸透は、自由の概念と密接な関係にあると捉えられています(『笑うケースメソッド民法』p.139、215)。しかし、そこでいう自由の意義、行為の自由に対する評価には、アメリカ法とは無視しえない差異があります。

「われわれの概念兵器庫をより豊かにしてくれたということもできる」とリップサービスしつつ、「しかし責任が追及しにくくなった、透明性とは反対側にわれわれが舵を切った」として、木庭先生は、「主体の自由」と「過失」概念の発展にはアンビバレントな感情を抱いていることが見てとれます(同上p.215。同207も参照)。「われわれ」という言い方にも、社会全体の動きに連帯責任的に引きずられたものの、個人的には納得できないという思いが見えなくもありません。

しかし、占有侵害が過失(注意義務違反)なく賠償責任を発生させるとすると、どうなるでしょうか。上記の通り、被害者の側の「占有侵害」の範囲とも関係しますが、社会における有用な(しかし一定のリスクを含んだ)行為が、原状回復や差し止めだけなく、多くの場合、事後的な金銭賠償の対象となることが想定されます。

「単純な占有侵害」の意味を絞らないと(ローマ法でも、かろうじて自らの身体に対する傷害で賠償の請求から認められた)、占有侵害が交換(échange)をもたらす契機にすらなりかねません。結果的には、本来であれば社会的に有益な行為全般が抑制されることにもなるでしょう。人との交わり、接触、活動は避けえられ、まさに点のような単位が他の単位を侵害しないように占有が敷き詰められた世界が実現されるようにも思われます。

不法行為法はもともと、法(占有)原理とは異質であるという問題意識は理解のできるところです。しかし、そうした本来異質な占有原理を不法行為の機軸とするというアイデアは、それがもたらすインプリケーションを十分に考慮しているは否か不明です。不法行為法においても、占有という「基本に立ち返ることは、決してそこから解答が現れるわけではないのだが、問題を的確に整理するためには大いに役だつ」(『笑うケースメソッド民法』p.216)とありますが、疑問の余地がなくはないように思われます。

「配管工だろういばるな事件」

抽象的な話が続いたので、『笑うケースメソッド民法』の第11章「不法行為」から、第2事案「配管工だろういばるな事件」を取り上げたいと思います。ネーミングセンスはありますね。

詳細はぜひ『笑うケースメソッド民法』をみて頂ければと思いますが、関係者の図は以下の通りとなります(同p.210引用)。

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工事現場における多重請負の事案で、判例タイムズの解説によると、「本件は、水道管敷設工事の現場で働いていた甲(y)が、同じく作業をしていた原告(X)に対し、作業に使用するために「鋸を貸してくれ」と声をかけたところ、原告(X)が持つていた鋸を甲(y)に向けて投げたことから言い争いとなり、甲(y)が原告(X)を水道管埋設用の穴に突き落し、さらに殴る蹴るの暴行を加え傷害を負わせた事案で、原告(✕)が甲の使用者である被告会社(Y)に対し、民法七一五条に基づいて損害の賠償を請求した。そして第一、二審とも使用者責任を肯定し、上告審もこれを是認したものである。」とされています(X、Y、yは、上図に合わせて筆者挿入)。

事案としては単純ですが、「y」の「X」に対する傷害について、「Y」の使用者責任を問い、認められたものとなります。

『笑うケースメソッド民法』のやり取りを少し引用しましょう。

S4:yが入ってきた。占有の関係が乱れた。Dの人員だったとしても微妙ですね。ところが一つ飛ばしてCいやYから入ってきた。
S20:Eの内部の人員が暴力的になった。
T:そう、引渡しを拒んでピケットを張り抵抗する感じですね。yはこれに突っかかっていった格好になってしまった。つまり占有を乱しに入ってきたというので固まって抵抗した。実際は冷たい反感が生まれたにすぎなかったでしょうが。
T:要するに、本格的な市民的占有は観念しえないケースだけど、それが崩壊したと同じ性質の人員の塊間で相互干渉が生じたため、それら人員の頂点に責任を認めたということだと思います。注意義務遵守の抗弁が検討された形跡がないのは、外形理論がストレートに当てはまる故意の場合に準じたためではないでしょうか。だからyの故意さえYの責任を阻却しないのです(『笑うケースメソッド民法』p.212)。

市民的占有といえる関係はなく、占有は二重構造にはなっていないが、そうした関係が崩壊したような人員関係があった。したがって、市民的占有で認められるべき注意義務遵守(無過失)の抗弁は成立しない。T(教授)はそういいます。

判例(上告審)自体は、yの行為によって生じた損害は、Yの「事業の執行行為を経緯として、これと密接な関係を有する行為によって加えられた」と極めて簡単な判示で結論を出しています。木庭先生としても、最高裁の法律構成は別としても、市民的占有における過失の抗弁は認められないケースなので、責任を認める結論は是認できる、ということでしょう。

加害者の側において、占有に不明確なところ(市民的占有が崩壊したり、占有を乱して入っていくような事情)があれば責任を認める、という帰結がここでも見てとれます。

さて、アメリカ法ではどのような結論が導かれるでしょうか。被用者の行為の不法行為に関しては、前回引用した『アメリカ代理法』では「代理人の不法行為に対する本人の責任」ついて整理されています(p.23以下)。

被用者(である代理人)が、故意に第三者に暴行を働いた場合、それが「雇用の範囲内」であれば、代位責任を負うこととされています。そして、「雇用の範囲内」といえるか否かは、使用者の利益を図るという目的でなされたか、あるいは近年は、業務内容からみて当該不法行為が予見可能か、あるいは業務に付随するリスクか否かという基準で判断されています。

今回のような暴行のケースでは、使用者の利益を図る目的を有しているとか、業務内容からみて予見可能な行為であるとは言い難く、使用者の代位責任は認められないものと考えられます。ただし、業務に有形力を利用することが想定されるような場合であれば、責任を負っていた可能性もあります(『アメリカ代理法』p.195の代理法第二次リステイトメント「仮設例2」参照)。

木庭流の「加害者の占有」(関係性)を見る見方は、むしろ連帯責任を広く認めるような様相を呈していることは気になります。そうした芋蔓のような関係を排除するため、賠償責任を認め、抑制しようとしているのだ、ということなのかもしれませんが、望ましくない行為の抑制、というアメリカ法的な論点は問題とすらされておらず、占有が不分明なところで起きた事象には、賠償責任を発生させよう、という志向が感じられます。

過失を原則認めないという行き方は、むしろ、本来は独立した主体間に芋蔓のように責任関係を伸ばしていくのではないか、という疑問も残ります。

終わりに

尻切れトンボのような投稿となってしまうことをご容赦ください。いつものように誤字脱字があれば適宜修正して、内容の修正については、末尾に経緯を残しておきます。

任意のブログ投稿というノルマは、達成しなくても誰も何も言われません。正月休みがずっと続いても良いわけで、ここで投稿しなければ、考えて書くという行為から離れてしまいそうだったので、中途半端でも投稿してしまいます。

ちなみにブログを書きながら、木庭流の占有と身体の関係理解に、疑問を感じたので、欄外とはなりますが、書き記しておきます。木庭先生は、自己の身体にも占有を観念し、『法存立の歴史的基盤』でも、それを心身二元論という言葉で片付けられていますが、占有とは本来、対象との一義的・明確な関係を見るものであって、自己の身体は、そのような一義性・明確性を問うまでもありません。

ローマ法において、傷害(イニューリア)に賠償の請求が認められるようになったのは、何も占有とは関係なく、アメリカ法でも(これよりも広く、近時、拡張されていますが)暴行(Battery)が伝統的な不法行為とされていたのと類似します。

しかし、そのような場面(あるいは、あらゆる場面)にも占有を補助概念として持ち込み、統一的に説明するために、自らの身体に対する占有という概念を観念し、単純な占有侵害の典型例に据えているように思われます。

『笑うケースメソッド民法』第11章「不法行為」の第3事案ではトラックの荷台に乗せた中学生2名を含む3名が死亡した事件で、不法行為責任が認められています(p.214)。被害者がトラックに乗り込むという、一見、占有侵害がないともみえる事例で、しかし、加害者側には、市民的占有の流動化という、やや無理筋といえる分析を加えます。さらには、被害者の側についても、「近接のたいへん小さな占有、中学生とその身体の関係」という言葉で、当然のように不法行為責任を認めますが、かつてのローマ法でかろうじて身体の傷害からはじめて、次いで領域における人的関係の安定化とともに物損一般の賠償が制度化されたという経緯と、死亡について(当然のように)損害賠償(金銭賠償)を認めるという判断との関係については、説明を加えません。理論的にも、当事者間の関係を裁定するにあたって、被害者自身とその身体の関係の一義性など問題となるわけもなく、本来はあえて占有など持ち出すまでもないはずが、心身二元論というキーワードを介して占有を認めるのは、占有が働く場面を拡張したいという(結論から遡った)動機が見られなくはありません。

占有のインフレとも思われるような木庭先生のアプローチは、『笑うケースメソッド』シリーズでは散見され、特に「公法」シリーズでは、補助概念、説明概念としての占有が多用されており、ある意味、収拾がつかなくなっている様相すら示しているようにみえます。法(占有)のトピックは、あと何回か取り上げる必要がありそうです。

(注記)

1.本文末尾が本当に尻切れトンボになっていたので、「…残ります」と追記しました。また「例外的にしか」は、語感から「原則」に修正しました(1/10)。

2.「配管工だろういばるな」事件は、文中yがそのようにXに言われてカッとしたという、そのセリフですが、判例は木庭先生のネーミングではなく、民法判例ではそのように呼びならわされているようです(1/10)。

3.アメリカ法の原則は、精神的損害は、原則として身体的・物理的損害に付随して認められるというものです。ただ、かなり消極的な態度を維持しつつも、全く認められないわけではありません(『アメリカ法不法行為法』p.50以下)。他方、木庭先生が「単純な占有侵害」というときの「占有」に、(被害者当人とその)「精神」との関係を含むならばどうなるか、本文で問題提起しましたが、損害の要件で絞るのか等、不詳です。個人的には抽象的な類型論だけでは、問題に対処しうるものではないところ、「占有」侵害を軸とした類型論には、なお抽象論に留まるという限界があるように思われます(1/10)。

4.取り上げた判例のアメリカ法での考えられる結論について、有形力の行使を業務とする場合は「責任を負っていたもの思われます」から、「責任を負っていた可能性もあります」に修正しました。あくまで実際の業務内容や被用者の特性等に応じた個別具体の判断によると思われるためです(1/12)。

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