見出し画像

Sep20. i'm with you の訳


数日前、マンションのロビーでたまたま友人に会えた。

彼女とは、中学時代、ほぼ毎日一緒に帰って、よくマンションの下で日が暮れるまで話していた。

くだらない話もあったし、他の人には言いづらい悩みも打ち明けあい、相談しあった。


中学卒業以降、お互い連絡不精なのもあってあまり連絡は取り合わず、約束をして会ったのなんて1~2回あるかないかくらいだったけれど、

今回のように、たまに会えれば(同じマンションでも意外と会わない)、久しぶり〜!と口では言いつつも、先週も会っていたかのように、会っていなかったブランクの日々などなかったかのようにおしゃべりを楽しむ、そんな相手だ。


今はもうお互い随分と違う環境にいるからか、

面倒なことは大の苦手なのに、人を傷つけたり嫌われるのが怖く、人の顔色をつい伺ってしまう性格が似ているからか、

雨の日は2人とも偏頭痛に悩まされるからか、

何でもお互い知っているというわけではないけれども不思議と深刻な悩みもするりと言えてしまう、そんな空気が私たちの間にはある。


そして数日前、約1年ぶりに会い、近況を話しあっていると、特大級のニュースを教えてくれた。あまりよくないニュースだった。

私はどうしたらいいのかなど考える余地もなく、衝撃のあまりしばし絶句し、そして衝動のままに彼女の背に手を回した。

一度ぎゅっとして、2~3回ぽんぽんと背を撫で、
そこでふと、彼女の周りはきっとこのようなカルチャーではないと気づき(またコロナ禍であることもここで思い出し)、体を離した。

彼女は少し驚いた感じも見せながら、
「まあ今は耐えるしかないんだけどね」
という主旨のことを静かに言った。

たしかに時間が一番の解決策だろうという内容であったし、悪いことが重なってもじきに雪解けのようにゆっくりとほぐれる時が来ることは私も知っている。

だけれども、その耐え忍ぶ時がどんなに辛いかも知っている。

そして、そういった時、当人が手を掴みたいと思わない限り、または掴み方がわからない限り、

どんなに周りが手を差し伸べても、それには感謝しつつも掴めない、掴みたくても掴めない時があることを知っている。


always i'm with you, sweetheart. の言葉がとても温かくじんわりと染み入ることを知っているから、精一杯心を込めて「いつでも駆けつけるし、そばにいるからね」と伝えるが、

言う側になると、「ありがとう」と言って静かに微笑むことがわかっているi'm with youはとてもエゴイスティックだし無力だと思ってしまう。

何とかしてあげたいと思うまではいいが、この手を掴んでほしい、掴ませたいなどと思うのは完全にエゴだと、押し付けだと思うのだ。

何より私は日本語を母語に22年間生きてきたのに、i'm with youのしっくりくる訳をいまだに知らない。

withの温かさと力強さはどうしたら文字に乗るのだろうか。どんな言葉になら乗るのだろうか。

一緒に、も共に、もそばに、も隣りに、も
なんか違う。何かが足りないのか、何かが余るのだ。


言葉は難しい。

気持ちが温度も色も柔らかさもすべてすべて、えいやっ!て送れればいいのに。

翻訳も解釈もなしに、ただ共有し、感じ合えればいいのに。

彼女の不幸なんて、すべて私が食べてあげられたらいいのに。

無力だなあと、思う。

数日経った今でも、「今彼女は大丈夫かな、幸せかな」と思う度に無力だなあと思う。


i'm with youの訳もわからない、無力な人間。


無力だから、願い、祈ることしかできない。


彼女が今夜は素敵な夢を見て、明日は健やかに穏やかに幸せに過ごせればいいと願う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?