お休み、エンプティー

 ここは……何処だろう。
 視界だけでは瞬きしたことなんて分からないほど暗く、何だか身体がふわふわ浮遊している感覚がある。
 ……あれ。自分は、誰だっけ?さっきまで、何をしていたんだっけ?
何となく覚えている気がするのに、もう喉まで答えが来ているのに、磨りガラスの向こうの様にぼんやりとしていて見えない。
「いっそ、全部忘れちまえよ」
 ふと、声の方を振り返る。
 目の下に濃い隈を浮かべた疲れた様子の男が、何も無い空間に佇んでいた。暗闇の中なのに、姿はハッキリと見える。
「全部忘れて、楽になれよ。どうせ、この理不尽な世界にうんざりしていたんだろ?」
 男が差し伸べる手のひらに、気がついたら手を伸ばしていた。
 だがその手は、自分の視界に入った途端に引っ込められた。 己の手が、彼のそれと同じく骨張ったものだったからだ。
あ……。と口にしたとき、思わず口を手で塞いだ。
「何だよ、俺と同じ声で驚いてんのか? どうせお前は死ぬんだ。精神の分離くらいあるさ」
 にやりと笑う彼の瞳は、絶望に染まって死んでいた。
「死ぬ……って、どういう事だよ?」
 俺がそう問いかけると、彼は呆れた顔をした。
「本当に覚えてないのか。ついさっき起きたのに?」
 俺が目を逸らして唇をかむと、彼は、じゃあ、教えてやるよ。と鼻で笑った。
「事故だよ。高速道路で、前のトラックから鉄骨がガッシャーン……とね」
 彼がその言葉と共にオーバーに腕を振り上げた。
 瞬間、脳裏にその記憶らしき光景が走る。
「はぅあ……っ!」
 思わず頭を抱えてうずくまる。今までの記憶がフラッシュバックする。
「しかし、お前も不運だな。……いや、幸運か?」
 彼がこちらに歩み寄る。
「望んでないのに産み落とされ、理由もなくいじめられ、怒られ、疎まれ。何の才能も夢もなく、ただ惰性のみで絶望の中生きる毎日からおさらば出来るんだ。思い切っても死ねないお前にはこれ以上の幸運、無いだろ?」
 彼の手が俺の頭を撫でる。慣れない感覚に、背中に虫が走ったような錯覚に陥った。
「こうやって、撫でられることも無かった。……悲しいとは思わないか?お前も、人間なのに、だ」
 俺は溢れる涙を拭いて、大きく息を吸った。
俺も、連れて─────
「ナツアキ!!」
 聞き覚えのある女性の声が聞こえた。
「ナツアキ!お願い、目を覚まして!!」
「フユカ……」
 悲痛な声に、思わず幼馴染みの名を呟いた。
「……何だ。お前も、心配してくれる奴がいるんじゃねぇか」
彼は悲しげに笑った。
「もう、全部思い出しただろ?なら、行ってこい。次は容赦しねぇからな」
 世界が光に包まれる。彼の姿も、白に融けていった。
「ああ、上等だ」
 そう言うが早いか、どこかで聞いたサイレンと、一定のリズムで鳴る電子音で目を覚ました。

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