安心のつくり方 <人間関係>

人間関係は、気を使う。気を使うと疲れる。だから減らせばいいと思う。最近アマゾンプライムで「ポツンと一軒家」という番組を観たらすごく面白かった。

「ポツンと一軒家」は、グーグルの衛星写真で上空から眺めた時に人里離れた・何もない場所にポツンと一軒だけある家を見つけ、そこがどんな家でどんな人が住んでいるのかを取材するという番組だ。私は、田舎に住んでいるが、都会に繋がるバスも電車も走っていてとても便利だ。そんな便利な地方都市的田舎ではなく、バスも電車もあまりはしっていないような本当の田舎。そんなリアル田舎の集落から更に車で30分も1時間も走った山の上や森の中のにある一軒屋にどんな人がどういう風に住んでいるのか。だいたい麓の集落から車が1台通れるか通れないかのほそ〜い一本道を走って、時にはその後車も通れない坂道や土砂崩れの後が沢山ある山道を右に左に通れる道を探りながら進んでようやく「ポツンと一軒家」に到着する。相当秘境的な場所にあるポツンと一軒家は、買い物などのための街へのアクセスや人々との交流する場合を考えるとどう考えてもすごく不便だ。「ポツンと一軒家」の周りには誰もいなくて、寂しくて、どんな世捨て人や変人が住んでいるのかと思う。でも実際にテレビスタッフが訪ねてみると、どの人の顔も穏やかで緊張はしていない。一人っきりだったり、家族一緒にだったり、いろんな人がいるが、みんな週に1回くらい麓に買い出しに出る以外は、自分の家で畑をやったり薪を割ったり広大な庭を手入れしたりしてかなり忙しく過ごしている。彼らの生活は、孤独で何もない「ポツン・・・」と取り残されたような雰囲気とは違う。彼らは、ゆったりとした土地に建つ自分の家で自分の畑や庭や家を手入れしながらその日に食べる自分の食べ物を作り毎日せっせと生きている。彼らが日々相手にして気にしているのは、友達とか知り合いとか同僚とか親戚とかご近所さんとか・・・そういう自分以外の誰かではなく、天気とか家の具合(修理するところは無いか)とか畑とか自分の体の調子とか、そういう「自分のこと」のように思える。いろんな人に毎日会って必死で空気を読まなくても、パワハラ上司や意地悪同僚など価値観の違う他人と一緒に働かなくても、生きていく方法はあるのだ。むしろ、そう言った他人に使うエネルギーを自分の家や庭や自分の体を日々気にして手入れすることに使えたら、すごく豊かな人生になるのではないだろうか。

 人間関係を減らして、それに注ぐエネルギーを減らす対象は、なんでもありだと思う。友達、ママ友、近所の人、上司、仕事仲間、時には恋人や配偶者との関係も整理した方が楽な場合もあるだろう。親や兄弟、親戚や独り立ちした子供に対してもある程度距離をとっておくことが心の負担を減らすことにつながると思う。

 私は、18歳で家を出てからほとんど実家に帰っていない。22歳で就職してからは一度も帰っていない。実家に帰ると殴られたり怒られたりして辛いからだ。実家も親も私にとっては、安らぎの正反対の象徴。この世で一番恐ろしいもの、関わりたくないものなのだ。親思いの人たちが私の言っていることを聞いたらなんて罰当たりなことを言うわがままな子だろうと思うのだろう。実際私自身も、長年実家に帰らない・帰りたくなくてどうしようもない自分自身に対して心の底で強い罪の意識を感じていた。世間や親戚に「あの子は、本当に反抗的で子供っぽいんだから」「子供思いの親御さんが可哀想に」「親の心子知らずね」みたいに言われるんじゃないかとか(実際に言われたこともある)いつもドキドキしていた。だから周りの人に私が実家に帰らないこと・親と会っていないことに対して後ろ指を指されたくなくて親がどんなにひどいことを私にしたのかを一生懸命説明したり、相手が、私を親不孝なわがまま人間だと思っていないかをいちいち確認したりしていた。そうしないと自分の頭の中で「このわがまま娘!」「親不孝者!」「裏切り者!」という声が何度も何度もぐるぐるとリピートして止まらないのだ。親が私にしてきたことをいちいち説明するのは本当にすごく疲れる作業だし、それを聞いた人によっては「それでも親はあなたを思ってやってるのよ わかってあげなさい」みたいに言う人もいたりする。(というか、礼儀上、相手の親のことを悪くいうのはマナーが良くない・もしくは私は会ったこともない人の悪口を言うような人間ではないわ・・・私はもっといい人よ・・・と相手のことより自分がマナーのいい善人であることを大切にしているだけだったりする)。しかし、こうなると(話している相手が親の肩を持って親孝行を掲げてきたりする)さらに大変である。「親はあなたを思ってやっているのよ、親をわかってあげなさい」この言葉で発作状態になる。ワァーーーーーと、まるで火山の噴火のような猛烈な怒りと悲しみ涙がこみ上げてくる。「なんで誰もわかってくれないの?」「なんでいつも私ばかりを責めるの?」「なんでいつも私が悪者でいつも私がバカ扱いなの!?」そんな気持ちが、制御不能の勢いで、今にも壊れだしそうな脳天から突き上がるのだ。そして怒りののち、突然泣き崩れたりする。普段はハキハキした明るいキャラクターの私が、突然泣き崩れたりして相手は、驚いちゃったりする。そして、それ以降「あの人は、面倒な人」という扱いをされて避けられたりする。そして、私は「あぁ、嫌われた・・・また、やってしまった」と自己嫌悪する・・・寂しさを募らせる・・・と、とにかく悪循環で自分が消耗するような人間関係の流れを自分で繰り返すばかりだった。私の中で渦巻く「罪の意識」「親から浴びせられた私は悪い子だという言葉の数々」脳内でリピートして止まらないことが、原因だったわけだ。私を大切にしてくれる10人の人よりも大切にしてくれない1人の人のことが、気になってどうしてもわかって欲しくなってしまい、心の渇望感が止められない。端から見たら「なんで?」という感じだろうが、本人としては、すごく苦しかった。

 心療内科での認知療法やEMDRでの治療、子供や旦那と過ごす楽しくも淡々として規則正しい生活の数年間を経てこの「罪の意識」や「親から浴びせられた私は悪い子だという言葉の数々」は、少しづつ和らいできている。そんな今、はっきりと思えるようになった。

「自分の親でも旦那の親でも親戚でも会うと辛くなるのなら会わなくてもいい 何も悪いことをされていなくても相手が悪くなくても、なんとなく会うと辛いなら自分が辛くなくなるまで無理して会わなくてもいい。」

「辛いことを思い出させて刺激してくるモノ・場所・人には、会わないようにして良い。罪悪感があるとそういうものに引き寄せられることがあるから、わざと客観的に意識して近づかないようにすることも大事だ。」

「『今体調が悪い』とか『仕事が忙しい』とか、相手を傷つけずに(自分の手間を取らせずに=喧嘩するのが一番疲れるから)会わないで済むようにする気遣いの嘘ならどんどん嘘ついてもいい。」

「大切なのは自分が、のんびり緊張せずに安心を感じながら暮らせること」 

「自分が悲しんだり緊張すると一緒に暮している旦那が心配したり、子供が不安になったりするのだから、旦那や子供が楽に暮らすためにも自分が辛くなることはやらなくていい(たとえそれが世間の言う『正しい行い』や『常識』だっとしてもやらなくていい)」

「私が我慢すれば・・・」とか「子供のために・・・」とかいう美意識は、今の世の中には合っていない。それが通用していたのは、経済もテクノロジーもゆっくりペースで年功序列で家長制度の時代の話。もしくは戦後からバブルまでの経済そのものがとりあえず上向きだった時代の話だと思う。その頃は、「とりあえず我慢してれば、いつかはご褒美がもらる」時代だった。昔は若い頃我慢して過ごして時が経てば、自分が年長者になる順番が来て最後はなんとなく報われた・・・そんな世の中だった。そういうシステムの中で、昔はただ我慢することが、生きて行くための武器として成り立っていた。今は、年功序列や家長制度がなくなり、実力主義・成果主義、テクノロジーの進化が激しい超スピーディーAI時代だ。経済ももう戦後のような特別な上昇は望めない。時代が変わったら生きる武器も変わっていいはずだ。いや変わるしかないだろう。古き良き年功序列時代の先輩たちに敬意をはらい「そうですね、そうですね」と頷きつつも、彼らのアドバイスを鵜呑みにしているわけには、いかない。彼らと同じように今の世の中で我慢してご褒美のくる順番を待っていたら自分のご褒美の順番が来る前に精神を病むか癌になって早死にするか若年性アルツハイマーになるだけなのではないか。人間の可能性は未知数だけど、身体や精神の肉体的な強度は、思ったほど強くない。私の母も我慢して頑張って働いてある日癌になって死んだ。私の母は、繊細で弱い人ではなかった。彼女は、どんな時にもひょうきんで明るくて強い女性だったらしい。

 自分の健康(心身ともに)を優先させよう。親不孝と言われようが、わがまま娘と言われようが、人付き合いが悪いと言われたら、その人や場所から離れよう。言い返す必要もない。価値観が合わない人たちとやりとりする時間とパワーがあったら、恋人や配偶者や子供や友達と遊んだり美味しいものを食べたり、何かを作ったりすることに使おう。この時間もこのエネルギーも限りあるものだから、何かを生むため育てるために使うことが世の中のためにも有効だ。


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