好きにやったらええよ

自分の抱える障害や、それを引き起こすトラウマ、その根底にある過去について文字にして具体的に書き始めたのは2018年の5月。

次男が産まれて1年が経った頃だ。

39歳の時だ。

きっかけは二人目の子供の出産と育児だった。

私は、2017年の5月に二人目の子供を無事に産んだ。

二人目ということもあり妊娠や産後の生活、育児にも自分なりの取り組み方が出来上がっていたので周りの人の言うことに動じることもなかった。

一人目の息子を一緒に育てた数年間の間に旦那との協力関係・信頼関係も少しづつできていた。

そんなことひとつひとつに安心や自信を感じることができたことで、

「私、大丈夫だ。今なら次に行けるかもしれない。」

そんな気持ちが、芽生えたのだ。

私は、ずっと若い頃自分が諦めたことにとりくみたかった。

わたしは、中学1年の時にいじめられて一時的に友達がまったく居なくなった。

それをきっかけで本を読み始めた。

休み時間、友達がいなくても本を読んでいると不思議と寂しくない。

だから私は、中高を通してまぁまぁの本好きだった。

まぁまぁというのは、読書家と断定するには読むスピードも量も遅いし少なかったからだ。

ただ気に入った本は、よくよく読んだ。

高校の時、文章を書くのが好きになった。

きっかけは、当時の国語の先生だ。

先生は、私が書いた何気ない感想文に対し「木下の書く文章は、頭の上からつま先まですべてが本当にわかりやすいっ!」と言ってクラス全員のいる前で力強く褒めてくれた。

びっくりした。

先生はそれからも度々私の書く文章を次から次へと学校新聞や文集に載せたり掲示してくれたり、一度は地元の新聞にも載せてくれたこともあった。

対して可愛くもなく、暗くて、いじめられっ子でダサくて、女子校的勝ち組女子のクスクス笑いの対象的存在だった私の生活が、先生のおかげで少し華やいだ。

夢多き、そして世間知らずな子供だった私は、高校を卒業したら東京へ行ってイラストレイターか小説家になりたいと思っていた。

その後、高校を卒業した私は実際に上京しイラストレイターとしても小さな挿絵の仕事をもらい、文章を大学のマスコミ志望の同級生が作ったフリーペーパーに書かせてもらったりするところまでは実現した。

でもすぐにPTSDや解離性同一性障害の発症により絵を描くことも文章を描くこともできなくなってしまう。

自分の思い描いたことを文章や絵にしようとすると、10代の頃に味わったものすごく強い罪悪感や脅迫感が押し寄せてきて苦しくなってしまうのだ。

それだけではない、頭の中にも声が響く。

「そんなことやってる場合じゃないよ」「早くお金を稼がないと」「そんなことやめろ 意味がない」「何かになれるとでも思ってるの?飛んだ勘違い野郎だね」

私は具合の悪さと頭に響く声に抗えず、大好きだった絵や文章による表現を諦め、それらの行為から離れた。

それが18歳。

あれから20年以上が経って39歳の時、やっと自分の表現をすることに向かい始めた。



私は、自分の体験や思いを書き始めたことを心療内科の先生に言った。

すると先生は眉間にしわを寄せた。

私のようなPTSDの人間が、自分の体験を文字にすることは「再体験」を引き起こす。

再体験は、辛いからやめたほうがいいと心療内科の先生は、言った。

私を心配して私を止める先生の言葉を聞きながら私は自分の胸の奥にしこりのような違和感を感じた。

この違和感。

トラウマの原因が私の体内で動いてる触覚だと私は思っている。

そして、ふと次の瞬間、言葉が私の口をついて出た。

「せ、先生、でも私書きたい・・・高校の頃からずっと書くことが好き書きだった・・・でも学生の頃に突然仕送りを止められたりしてお金がなくて生活できなくなるのが怖かったし、親から言うことを聞かないと許さないぞと脅しの電話が来たり、自分の頭の中にもいろんなん声が聞こえて・・・具合が悪くなって、諦めちゃった・・・。うちの親は、いつも私が何かに一生懸命になるといつもそれを馬鹿にしたり、取り上げたり、禁止してきた。やっとまた書きたいと思えるようになったのに・・・今度は、先生が・・・私を止めるの?止めないで・・・お願いだから。」

そう言って私はポロポロと涙をこぼした。

そんな私を見て先生は、

「ほうか、ほうか、ほうやったか、いやいや、そっちかそっちのほうか。ごめんごめん そうか〜 ごめんね。わかったよ。いいよ いいよ。好きにやったらいいよ」

と言って抱きしめてくれた。

私はそのまま先生の腕の中で泣いた。

そして、その時生まれて受け入れられてほっとする気持ちを手に入れた。

手に入れたと言う言い方、それが本当に当てはまると思う。

好きなことをやっていい、それを応援してくれる人がいる、そして抱きしめてくれる、そんな当たり前のようで当たり前でない体験を私は手に入れたのだ。

こうやって私は少しづつ自分の頭や心穴ぼこを埋めて修理していっている。

書くことは確かに辛い時もある。

気づくと同じような内容を同じような言葉で繰り返し繰り返し書いていたりする。

辛い思い出を書いていて、それをどっぷり再体験してしまい元気が無くなったり体調を崩してしまうこともある。

でもいいこともある。

少しづつ書くごとに、ふとそれまで気づかなかった事実に気づいたり。

40歳の母親の自分の目線で18歳の自分のことを眺めることで当時の幼かった自分のことが許せたり。

当時まだ幼かった世間知らずの子供を脅して言うことを聞かせようとした大人たちの残忍さを大人となった自分が同じ目線で理解し、「よくもそこまでやったよな・・・狂ってるわ」と呆れたり。

「私は強いから、私は平気、私にとってはなんでもないこと」と鼻息荒く蹴散らしていた出来事を実はまだ引きずって、乱暴に蓋をしているだけだったことに気づいたりもする。

そしてそれら小さい一つ一つの傷を痛がる子供の自分を大人のお母さんになった今の自分が面倒みる。

「大変やったね」と抱きしめる。

少しづつ書いて、書いては苦しくなって、苦しくなっては休み、元気になったらまた書く。

書くことで表に現れ、休んでいる間にも刻々と脳は整理され、小さな階段を上るようにゆっくりだが確実に回復していくのだ。

書いては休み、仕事や家事や育児などの規則的な日常に淡々と取り組む。

そしてまた書く。

そうやって少しづつを順繰りに繰り返すことが、体力的にも精神的にも今の私にはちょうど良い。

自分の思いを書けていること自体が、なんとなく楽しいし、なんとなく嬉しい。

書き始めた時は、「読んだ人が救われたらいいな」とか「どうせ書くなら読んでて面白いものを書かないと」とか、、、そういう外側に向けての承認欲求や「意味があることをやらねば」という気合いがあったんだけど。

最近は、書いているだけでなんとなく楽しいし、なんとなく嬉しいから、、、書いているだけで、ただそれで幸せと思って書けるようになってきた。

親からの圧力や金に困って四苦八苦してた18歳当時の私は、親に必死で抵抗しながらも親の目線で物事を見ていた。

親を必死で黙らせるために親に認められる立派な人間にならないとという気持ちが抜けなくて、いつも必死で頑張らなきゃとビクビクしていた。

自分が楽しく好きなことをするのは愚かなこと・悪いこと・人を不幸にするとだという罪悪感があった。


でもあの時、先生が、「好きにやったらええよ わかってあげんでごめんね」と言って抱きしめてくれたから。

それだけでもう気が済んだ。

そあれだけで今は、安心できる。

やっと頭の中の声が「そんなことやめろ!」と言わんくなった。

頭の中の声の子が、先生に受け止めてもらって安心したんやろうな、きっと。

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