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「GHQ型PTA」と「逆コース日本型PTA」 ( J・M・ネルソン 著 占領期日本の社会教育改革より)/”文部省の”PTA会則サンプル”が民主化を防いだ要因と分析。検証論文

占領期日本の社会教育改革 J・M・ネルソン 著

Ⅲ 成人教育に関係する民間団体の再編と発展(1945年~1950年)より   PTAに関して重要な記述を下記に引用しました。全文読みたい方は図書館で取り寄せたら読めます。

(※文中 著者=ネルソン氏)

戦前の「後援会」「母の会」が令和のブラックPTAとほぼ同じだった

A 父母と先生の会(PTA)

 合衆国で知られているような父母と先生の会が、日本では、占領以前にはほとんど知られていなかった。

様々な種類の「後援会」や「保護者会」は、日本中に存在していた。

概して、それらの主要な目的は、税金によって充分に維持できない公立学校の運営を援助するために、資金を提供することであった。

そのような「後援会」の会員になることは、通常、学校へ通う子どもを持つ親にとって義務となっていた。

しばしば親たちは、学校へ通う子どもの人数を基準にして、寄付金を出すことを強要された。

役員は民主的に選挙されず、会合の際には民主的議事法がとられず

さらに少数の「ボス」がそれぞれの会の諸事業を支配していた。

すべての会員が、採決に参加する平等な権利を持っているわけではなかった。

教師は会員に含まれていなかった。

年に1、2回しか会合を持たなかった。会は、子どもの福祉を増進するための継続的な事業を展開することはなかった。会は親と教師が、共通の問題を議論したり、成人教育の事業を主催する機会を提供しなかった。

多くの場合、「後援会」とは全く別に「母の会」が学校に組織され、家庭生活を改善する方法やそれと関連する課題について学習していた。しかし、「母の会」の活動は、しばしば学校長によって支配されていた。

そのような会は、日本における伝統的な性差別と婦人の低い地位を固定化する傾向にあった。


日本型「後援会」「母の会」から脱するためのGHQ型PTAの設置

1946年3月アメリカ教育使節団は、PTAの設置を奨励した。最終報告書は、地方の学校制度の長が、「…児童の福利を増進し教育上の計画を改善するために、両親と教師との団体組織」を助成するように示唆している。

1947年3月27日の「日本教育制度改革」に関する極東委員会指令では、次のように述べられている。

[ 教育団体や父母と先生の会の結成および方針の修正が奨励されねばならぬ。そして、そのような団体は、民主日本における教育方針の意義深き変革を日本人民に認識させることを援助するために、具体的な教育上の問題を考究することを奨励されるべきである。]

著者は日本中に地方PTAを発展させるための一貫した方策を講ずるために、努力し、軍政部(MG)PTA担当官のための提案的声明を作成した。それは、1947年1月14日に発せられた。この文書は、PTAの発展に関する全般的政策についてSCAP担当官が、軍政部教育担当官に示した、最初の文書であるので、そのいくつかの段落を次に引用する。

【 児童の成長に対する責任は、父母と教師の二者により分担される。これら児童生活における二大勢力はできる限り親密に互いに補足し合い、父母と教師は、各児童特有の才能を伸ばすのを援助するのに協力すべきである。

そしてこれは、両者が互いに相手方をよく知り、児童の教育全体に対して、相手が何に貢献し得るかということを理解してはじめて両者は最善を尽くすことが可能になる。どうすれば両者が強力して児童の家庭生活、学校生活、社会生活を改善できるかを理解する必要がある。父母と先生の会は、この理解と協力とを増進する有効な諮問機関である。

先ず、PTAは各学校単位に設けられるべきである。それらは、下から組織されるべきである。基礎単位は1学校の教師と、その学校在籍児童の父母よりなる1グループであるべきである。

もちろん、会員になることは、絶対に任意であるが、教師は通常、当然これに属することになるであろう。

地方団体は、単位団体の希望する色々な計画を自由に実施する自主性を持つべきである。 】

ネルソン通達(1948年)(GHQ型PTA)

PTAは、自発的、独立的、民主的団体であるので、何人も会員になることを強制されるべきではない。

国および都道府県当局は、個々のPTAの求めに応じて、助言や援助を供する以外は、法の範囲内であれば、いかなる活動に対しても個々のPTAを支配すべきでない。

会長と役員は、各学校の父母と先生の会の全会長によって選挙されるべきである。

選挙は、経済や政治に左右されるべきではない。

PTAは、各学校 小 中学校や、高等学校に、1つずつ、下から盛り上がる力で作らねばならぬ。

各々のPTAは、独自の活動を進めるべきである。

PTAを組織する責任は、個々の学校にあるべきで、社会教育課にあるのではない。

社会教育課は、必要な情報資料を提供してもよいが、PTAを組織したり統制しようとしてはいけない。

すべての父母と教師は、新しいPTAの下で認められた責務と権利を平等に分かつべきである。

資金を調達する方法は、民主的な仕方で、全会員によって決められるべきである。

PTAは、学校事業の運営を統制したり、教員の人事に干渉しようとしてはならない。

しかし、PTAは、カリキュラムや学校経営に関して生ずる全般的問題や、その他の教育に関係するどんな問題についてでも、研究し議論してもよい。


1948年 「日本の民主化・非軍事化」に逆行。逆コース、レッドパージが始まる

1949年の早い時期に、PTA全国連合会設立を求める声がおこった。

(※1948年(昭和23年)米国の対日占領政策が転換し、それまで推進されてきた民主化・非軍事化に逆行する動きが強まっていった。これを逆コースといい、 1950年(昭和25年)に入ると、共産党が弾圧の対象となり、職場でのレッドパージが行われた。 そして、軍国主義者、国家主義者と見なされ公職から追放されていた人々の大幅な追放解除が1949年以降に進められた。 1951年(昭和26年)には教職追放の解除によって、民主化のためには不適合とされて教職に就けていなかった教育関係者・管理職たちが学校現場に戻ってくることになった。)

(※ネルソンは、「新しいPTAは古い後援会とほとんど変わっていない」。全国PTA協議会結成を目指した集会で、そう批判され、占領期間中は結成を断念。)

ネルソン氏の所見

【…この組織は政府の統制と干渉から完全に分離されるので、このような連合会の仕事をよく知っている占領軍職員による援助が必要となるであろう。

必要な部分に指導を与え、もしそれがあるべき役割からあまりにもかけはなれて活動しようとするならば圧力をかけるというような厳しい監督が、結成後のおよそ6ヶ月の期間に行使されるべきである。

このような連合会が非民主的目的をおし進めようとする一部の人間の道具になるのを、いかにして阻止するかということは、

現実的課題である。】

著者は、もし約1,500万人(1950年)の連合会員を有するPTAが、政治的ボスまたは、不当利得者に統制されるならば、多くの困難が生じることを予見した。

1949年 ネルソン氏の奨励なしに市や都道府県の連合会が誕生

著者は全国的広がりを持つと思われる問題のいくつかについて以下に論ずる。その多くは相互に関連している。

(以下、問題点)

1.学校の財政的援助に関するPTAの責務

公立学校が公費によって運営されるべきてわあることを否定する日本人はほとんもいないであろう。PTAが建造物、設備、教師の給与を補うために、資金を提供する必要がないことを、否定するものはほとんどいない。しかし学校の建物に暖房がなく、ほんの最小限の設備しかなければ、子どもの幸福に関心をもつ父母は、そのような状況を和らげるためにできるだけのことをするであろう。資金調達活動は、PTAが提唱した資金獲得活動に対して、1948年に課せられた重税によって妨げられた。そのような活動がPTAの主な関心となり、従って成人教育活動を最小限にするような傾向もあった。学校を支えるために、会員に寄附を要求するような古い方法を採ったPTAもあった。学校のための一層の公費援助を要求する世論を喚起し始めたPTAもあった。日本のPTA全体は有識者の大きな部分を代表しているので(約1,500万人)統一した行動によって、多くを成し遂げることができた。

2.会員の一部にある関心の欠如

この関心の欠如は事業がおもしろくないということに由来しているように思われた。財政問題についてのみ議論されることが多かった。会合はまったく形式的であった。全会員にとって興味深い継続的教育およびレクリエーションについての事業の必要性が、軍政部教育担当官と筆者によって強調された。そのうえ、事業は「誰かほかの人に問題を解決してもらおう」という気持ちが、しばしば存在した。

3.民主的手続きに関する知識の欠如

会員の側の議事法に関する知識の欠如が、PTA「ボス」の都合のいいように働いた。

討論はたいてい簡単な質疑応答に終始した。無記名投票による多数決での役員選挙や決議は、多くの地方において新しい経験であった。しかし、これらの民主的実践は、どんどん確実な地歩を得た。

4.適任の指導者の欠如

この問題は、上述したことと密接に関係していた。多くの事業が、PTA指導者を要請するために設けられた。そのいくつかは、既に述べた通りである。しかし、日本におけるPTA運動の重要性と、日本のPTA会員の民主的団体に関する経験の全般的欠如は、指導者の養成を継続的な問題にした。

(※米国で日本の指導者を招待し研修もしたことがあるとの記載あり)

5.内部運営の拙さ

しばしば数人の役員や実行委員会の会員が地方PTAの事業を支配した。多くの役員は、彼らの責任に関する知識に欠けていた。教師と校長は、時々、正規の会員であると考えられなかった。多くのPTAには委員会の仕事についての知識がほとんどないようであった。しばしば諸決定は、総会における全会員によってではなく、委員会によってなされた。ほとんどのPTAでは記録の制度がなかった。

6.情報資料の継続的供給の欠如

日本の諸期間による何千もの地方PTAに対する情報提供の努力にもかかわらず、多くの地方PTAは継続的プログラムを発展させるための参考資料を持っていなかった。米国PTA全国協議会は翻訳と日本語版の出版のために、そのすべての出版物を公開することによって、この状況の打開のために援助した。「PTAの時間」が毎週ラジオで放送され、今日のPTAの諸問題について議論された。PTAが使用するのにふさわしいスライドや映画が、占領軍側から、また都道府県フィルムライブラリーを通して利用に供された。多くの日本の民間出版会社は、その後もひきつづいて必要と思われるPTAに関する資料を準備し始めた。多くのPTAの資料が、市町村当局によって出版された。

7.その他の種々の問題

それぞれの学校に1つのPTAを設置するよう奨励していた占領軍職員の努力にもかかわらず、あるPTAは地理的境界によって組織され、またあるPTAは個々の学級単位で組織されていた。(※現在のPTA問題、地区委員、学級委員のことですね。)

あるPTAは、教育委員会の委員選挙に関してのPTAの役割について誤解していた。PTAの会員は、個人としては選挙に積極的な関心を持つように促されたのであるが、PTAは非党派的団体であり、団体としては特定の候補者を支持すべきではないと、占領軍職員は指示した。しかし、文部省行政官は「PTAは若い世代を育てる重要な任務にふさわしい人物を選出することを援助するために、候補者の公開演説会をぜひ聞くべきである」と指示した。すべての候補者に意見を述べる要求をし、その後に「票をかき集めること」を手伝ったPTAもあった。

教育委員がPTAの役員に就任することの可否についての質問もまた提起された。1950年3月4日、宮城県教育委員会事務局長への通知の中で、文部省はそのようなことは違法ではないと、指摘した。しかし、文部省はさらにまた次のように延べた。「教育委員は教育行政の執行機関であり、PTAは、個々の民間人により組織された社会教育団体であるから、後者は前者により何らの統制、支配、干渉も受けてはならない。それゆえ、実際問題として、教育委員がPTAの役員を兼ねることは好ましくないものと考える。」

PTAとPTAを「利用する」ことを望む他の諸団体、機関との関係は、それぞれのPTAがより自立的なものになるにしたがって、徐々に克服される問題であった。

問題点を残したまま…文部省は全国連合会の規約案を起草

1950年に文部省に付設された「父母と先生の会」文化祭審議会は研究協議会に基づいた全国連合会の規約案を起草した。

占領軍職員の中には連合会はしばらく設立されるべきでないという意見もあった。著者は適切な指導がなされるため「平和条約調印より前に」そのような連合会を設立されることを望んだが、著者が日本を離れたのち設立は延期された。

(※「平和条約調印より後の」1952年(昭和27年)10月14日-16日、東京で「日本父母と先生の会全国団体結成大会」が開かれ、PTAの全国団体が結成された。)

監訳者あとがきより

ネルソンは30歳の若さでCI&E成人教育担当者として着任し、4年余にわたって一貫して戦後日本の社会教育の「民主化」のため指導と方向づけを行った。占領政策の一環としての社会教育改革にさいして、彼は1930年代後半~40年代前半のアメリカ進歩主義教育思想とその影響下にあった成人教育実践を背景に、アメリカ教育使節団報告(第一次)と極東委員会指令に即しながらも、日本(政府)側の主導性も比較的重視した。ネルソンの社会教育改革の主要な力点は、第一に、民間社会教育(団体)の自由、自主性の確立であり、第2に、団体に対する政府補助金の制約、すなわち団体への統制、支配の禁止の徹底であり、第三に、社会教育の分権化、いいかえれば市町村社会教育の自律性の確保、等におかれた。総じて、ノーサポート、ノーコントロール原則の実現が企図されたといえよう。具体的には、文部次官通達「地方における社会教育団体の組織について」(1948年7月14日)俗称「ネルソン通達」とよばれたほど、ネルソン自身がきびしく指導、関与した通達であったし、社会教育の分権化を具現するものととらえ、公民館運営審議会、社会教育委員の諮問機関化を方向づけた。いずれもネルソンがいかにリベラルな社会思想の持ち主であったかを立証する指導施策である。ネルソン論文によれば、彼は絶対的価値の存在を否定する相対主義的価値観と意思決定への参加の機会の平等性を重視する民主主義観に立って、反国家主義、反官僚主義とともに反共産主義の政策展開の必要性を強調する一方、日本の右傾化、再軍備化が追放された旧保守勢力の台頭をゆるす危険性があることを警戒した。こうした考え方がネルソンの占領社会教育政策観に一貫して底流していたといえる。


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占領期日本の社会教育改革からの引用ここまで↑

↓以下、Web上で読める論文

PDF
戦後教育改革に学ぶ ―改革から反改革へ― 

↑監訳者 新海英行 著 2015年度の論文です。


現代語版 監訳者論文 「ネルソン通達」(戦前的体質を有する青年・婦人団体へのきびしい批判ないし拒絶)

新海英行 論文

社会教育研究45年
―現代社会教育の歴史的特質の解明を目指して―

> 「第4に、ネルソンの民間社会教育団体に対する指導・関与である。PTA、社会教育協会(連合会)など、団体の再編・組織化に対するネルソンの指導上の特質は、

①戦前的体質を有する青年・婦人団体へのきびしい批判ないし拒絶

②社会教育の実質的な担い手としての団体の自由と自律性、

③団体に対する政府の統制・支配の排除(それゆえ、団体への政府補助金提供を禁止)、

④PTA全国協議会の結成と社会教育連合会の再編成への期待、

等であった。とりわけ、②および③については、ネルソンは 1948年2月28日付兵庫軍政部宛の指令文書「社会教育事業への政府補助金について」で指示している。それは、民間団体への政府補助金提供の制限と政府の統制・支配の禁止を主内容とするものであり、かれの強力な示唆により、
同様の趣旨の社会教育局長通達「地方における社会教育団体の組織について」(1948年7月 14 日)、
いわゆる「ネルソン通達」が出された。

>一定部分継承するものとして、そしてその活動拠点として公民館設置が促進されたと考えられる。
総じて地方・地域にあっては戦前社会教育の内実が戦後改革のなかで解消されることなく、占領政策の枠組の中ではあるが、要所要所で継承された
ことが看取される」以上が占領研究の概要

戦後GHQ占領期におけるPTAと地域の関係 /東京大学学術機関

―教育の分権化の観点から―

↑ PDF (戦後GHQ占領期におけるPTAと地域の関係)

>つまり,CIEは,単位PTAの自治団体としての健全な発展を望んでいた。

文部省の”PTA会則サンプル”が民主化を防いだ要因と分析

>平井(2013)は,PTAの規約準則の分析から,CIEは民間団体としての自発性やグラスルーツ的な発展をPTAに期待していたが,CIEと文部省による「参考規約」の作成及び配布により,PTAの組織や運営方式は結果的に上から降ろされるようなものになったと指摘した8)
。この「参考規約」の存在自体が,PTAの組織理念の背景にあるアソシエーション的な理念の価値を住民自ら検討する機会を奪う結果になったと分析

↓Associationを「会」と翻訳していた

>議論の基盤は,地域社会の住民自治であり,それゆえの「A」,つまり「Association」であった。しかし,これが「会」と訳されているように,日本側にその意図が十分に伝わっていたかどうかは疑わしいと思われる。

>。しかし,すでにこの時期から PTA の 育のことは国民が責任を分担するのである。(中略) 学校後援会的性格や非民主的運営への批判,つまり旧 PTA は自分の子供をかわいく思う自然な気持ちから始 来の父兄会等の活動がそのままPTA に引き継がれる まって,その地域全体の子供の福祉をめざす団体であ 問題が出ていた。


議論の基盤は地域社会の住民自治であり、それゆえのA。

※↓現在のPTA非加入者差別構造は戦前から続いている。

>あるPTAはその村民全部を会員として,あたかも戦時中の隣組のような組織を作り,物資の配給から供米に至るまで,村のあらゆる都面に関係しようとしているものがあると聞いているが,根本の考えをはっきりしておかないと,こうした行きすぎになる可能性は十分あるのである。」24)
 

>あくまでも「PTAの組織や運営に参考となる情報を提供すること」28)にあり,PTAの理念に関わる資料を提供し,既存の保護者組織と戦後のPTAとの違いを明確にしようとしていた。つまり,PTAの前身となる保護
者組織が持っていた課題が,PTAとして再編していく中で解消されない場合が依然として多かったという実態の裏返しのようなものでもあった。
 

>五百四十二号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く町内会部落会又はその連合会に関する解散,就職禁止その他の行為の制限に関する件,1947年5月30日付)により,町内会の解散を命じ,地域組
織と国家権力の関係を解体
しようとした。「政令第十五号」により町内会の解散が命じられ

連合会の結成を反対

>C.PTA連合会の結成に関する議論
ネルソンはPTAの発足について,まず各学校単位
で結成し,活動を展開することを奨励していた。1947
年11月,ネルソンは東京の小学校PTA連合会に関わっ
ていた日本人関係者3人との面談を行う。この連合会
は各学校の保護者会の代表を中心に組織したもので
あったが,特に規約や規定を持っておらず,その主な
活動は学校への財政援助となっていた。ネルソンはこ
の面談でPTAの目的を説明した上で,その発足の段
階として,まず各学校単位で保護者と教師が平等な立
場から教育課題を議論するものとして展開する必要が
あると説明した34)

1948年はPTAの形式的な定着が進み,全国の8割
以上の小・中学校でPTAを設置していた。この流れ
から,一部の地域では民間を中心にPTA連合会結成
の動きが出ていた。1948年に入ってから「PTA委員
会」の初代委員長だった早稲田大学の北沢教授の主導
で「PTA全国連合会結成準備委員会」の活動を進める
ことになる。1948年1月17月には東京明治大学で日
本PTA連合会結成のための準備会議が開かれたが,こ
の時は連合会結成に関する具体的な計画は立てなかっ
た35)
まだ各単位のPTAで解決すべき問題が山積して
いたからであった。

ネルソンは,各単位のPTAがその自発的参加と自
主的活動の原則に基づいて定着できるまでは,連合会
の結成を急ぐことに反対していた。
1948年はPTAの
形式的定着は進んだものの,「ごくわずかのPTAだけ
が民主的に再組織され,依然として多くのPTAは建
設的なプログラムを実行していない」ため,この時点
連合会を立ち上げることには,反対の意思を示した36)

11月6日と7日にかけて早稲田大学でPTA研究会
が開かれたが,この時もPTA連合会は時期尚早とい
う批判が引き続き出ていた。結果的にこの翌月の12
月,文部省は出した「参考規約」により,全国の単位
PTAはその参考資料に準じる形で体制と整えていくこ
とになる。連合会結成の時期尚早論に関しては,コロ
ンも同じ立場だった。二人とも,PTAの活動がいずれ
は地域や全国単位として拡大されていくことが望まし
いと思っていたが,それはまず外部からの圧力を受け
ない自立的な単位PTAの基盤を整えてからのことで
あった。

このような議論の背景には,「組織の中央本部が地
方単位を支配するという日本の歴史的傾向のゆえに,
いかなるものであれ全国組織の設立を奨励する以前
に,一つひとつの学校を中心に強固な地方単位PTA
を組織することが賢明である
」というネルソンの判断
があった37)
。1948年に初めてPTA全国調査を実施した
際,ネルソンはこの調査を政府や地方当局によるPTA
への統制手段として解釈されることを強く懸念してい
た38)
。地方当局が単位PTAを直接指導することを警戒し,PTAは各地域の状況に応じて保護者と教師の完全なる自由な意思により民主的に組織されるべきであるという原則を,繰り返し強調した39)。

PTAの発展の段階としては,まず学校単位での小規模で主体的に学習
する基盤を作り,それが徐々に地域と国家レベルへと展開されていくことを想定していた。当時の地域社会組織,例えば,愛国婦人会,青年団,消防団等の組織は東京に中央本部を持ち,地域の住民生活領域を管理
していた。そして,このような地域社会組織は,大概
の場合,学校長や地域の長と連携していた
40)
。CIEは,PTAが他の地域社会組織のように中央と地域支部とい
う関係から支配問題が発生しないように,自立的な団体として発展することを望んでいた。


初期PTAにおけるアソシエーション的特性に関する一考察
一占領期PTA規約準期等の比較検討を通じて


↓論文PDF

文部省がPTA会則から「地域ボス除外」を、しれっと除外して改訂(OBが院政を敷く顧問制度を無くそう)

規約を具体的に示さなかった文部省[父母と先生の会」資料を除くと、占領期に出された規約準則にはPTA役員の構成について親が中心となる
ことや、役員の資格について「地域ボスを除外することが明記されている。いずれも会の運営を民主化するために、日来の支配者層が影響力を及
ぼさないよう規制するための規定であり、占領終結後に改訂された参考規約から当該事項が除外されたのは、いわゆる「逆コース」として説明がつく


会員の権利を保障するはずの「規約は、最終的にはアソシエーションを構想する自由を規制する手段として用いられている。この背景には地方軍政部の成果主義的な性向が垣間見えるが、PTAを受容した側の受け止め方がアソシエーションの本質を必ずしも理解しきれていない側面があったことも否めない。

民生局が戦時下の国家主義、軍国主義を日常的に下支えした隣組・町内会を廃止することを決定し、 1947(昭和22)年5月の政令第 15号(ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く町内会部落会その他の行為の制限に関する件)をもって禁止措置に踏み切ったのである (28)それを受けて、 6月30日には文部省より各知事、直轄学校長あてに通牒「学校後援会父兄会又はこ
れに類似する団体に関する件が出されている。通牒の内容は、政令第 15号により解散すべき団体のなかに、後援会、父兄会はふくまれないが、
公・教職追放者がこれらの団体の長になっていることは適当ではないとするものであった。

PTA全国実態調査の結果からは、結成のプロセスが旧来の類似組織から自動的に切り替えられたものが多いことや、役員中に顧問、相談役、世話役、参与などの役名を含むといった組織運営上の問題が、地方PTAの多くに見られることが明らかとなったのであった。

論議を尽くしたのちは日本人に任せるという姿勢はまさに民主主義そのものとも言えるが、学校の懐事情に配慮、して規約案の項目を日本的に馴致さ
せたことは、 PTAそのものの真髄である民主主義に徹底しえなかった(35) 一因と後に見なされることにも繋がるのである。

規約が上から流されたことで、「それまでみんな一生懸命考えて各校の実情に合せていろんな規約もあったし、会議のやり方もいろいろあった ところが、「規約にのっとりさえすればいいんで、是非を論ずるチャンスを失った との批判も出されている。民主的ルールを非民主的な手段によって定着させるというアクロバティックな企ての限界が、露呈された一場面であった。

CIEは参考規約を作成するにあたってもなるべく「上から下ろされたものと受け取られないよう、日本側の実態や事情に合わせようとする姿勢を見せて
いた。しかし結果的には、モデル規約の存在そのものがPTAの組織や運営方式を整える上で一定の有効性があった反面、背景となる組織理念(=
アソシエーション性)を検討する機会を個々のPTAから奪うことにつながり、形骸化の一因となったとも考えられる。

(↑逆コースPTAの歴史がよく分かりす。平井貴美代氏の論文は必読です。↓

)


米国では基本中の基本原則の「加入や選択の自由」という要件が会則になかった問題


一方で、「アソシエーション の基本原則である加入や選択の自由という要件が、米国ではあまりにも基本的な理念であったがゆえに、規約準則
等に書き込まれなかったことも問題であった。当該理念は容易く忘れられ、現在の PTAには自発的結社としての特性はほとんど残されていない。


役員選挙への投票権はメンバー全員がもっ、重要な決定は規約に定められた手続きをとおしてくだすといった「アソシエーションの原則を、「出
資者民主主義と呼ぶように側、本来それら手続きは「民主主義 を抜きにしては意味をもたないものである。

杉並区和田中学校の PTA廃止論は、学校支援地域本部との重複による非効率を問うものであったが、むしろこうした重複は「アソシエーションとしての PTA本来の在り方に沿ったものとも言えるはずである。
最後に本稿は米国の文化に深く根差した[アソシエーションが変質し、「臼本化」したことの問題を論じてきたが、他の占領期を起源とする制
度についての同様の議論が制度再編への原動力とされている現状とは、一線を画する立場であることを確認しておきたい。

その他 参考文献「日本PTA史」著者: PTA史研究会 編」


子どもたちに何のメリットがあるのか…退会が増えて当然「知られざるPTA上部組織の実態」

日本最大級の約800万人、現場の意見が通らないトップダウンの組織

国との結びつきが強い

PTAは戦後、教育の民主化を目指す占領軍(GHQ)の働きで、文部省(当時)主導の下につくられた。1948年には文部省内に前身である「父母と先生の会」委員会が設置され、文部省自らPTA結成の手引き書を作成し、全国の都道府県知事に配布した。52年には、「日本父母と先生の会全国協議会」という全国組織が結成されるが、ここでも文部省は参考規約を作成するなど、PTAを指導・管轄する立場を崩さない。その後、文科省に改編されても、PTAは生涯学習政策局社会教育課の管轄として教育行政に組み込まれる存在であり、2013年に公益社団法人となり内閣府の所轄となってからも、国との結びつきの強さは変わらない。

日Pは1968年に「日本PTA創立20周年記念式典」を挙行して以降、10年おきに周年行事を開催しているが、式典には皇太子、総理大臣、衆参議院議長、文科大臣の出席があり、国家の行事として創立を祝福される。日Pはその始まりから、国家の意志と強固に結びついた組織だと言えよう。





日本PTA全国協議会がホームページにPTAの歴史を更新したが、逆コースを書かない。


2022年、日本PTA全国協議会のホームページがリニューアルされました。
PTAの歴史なるものを書き連ねているのですが、
全国組織の発展
第2次米国教育使節団の方針転換の箇所で、
歴史背景がゴッソリとカットされています。

1950年 冷戦の勃発に伴う日本の「逆コース」(GHQの戦略だった日本の民主化・非軍事化に逆行する動き)が始まります。
推奨したのはジャパン・ロビーのアメリカ対日協議会(ACJ)

逆コース
レッドパージ(軍国主義とみなされ公職追放されていた教師が戻ってきた→追放解除)
反共
戦後民主主義の危機

こういった歴史的背景が起きたことを
ゴッソリ削除した状態で
全国組織を奨励されたと書くのは、明らかにミスリードでは?
保護者も馬鹿にされたものですね。

https://twitter.com/mikiki19/status/1559868082306174976?t=wI8Kz2kXsKwV_H_-_-k0HQ&s=19

ちなみに日本ユネスコは、国連ではなく民間の団体
ユネスコの委員に、日本PTA全国協議会の顧問が入ってます。
笹川財団も入ってます。





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