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顔下半分に責任

どうしてもお伺いできなくて、オンラインで打合せをする機会があって、その際に「久々にマスク取ったお顔見ますね」と言われました。なんか妙に気恥しくて、そんな自分の中の新しい感覚の発生が面白く感じたのでした。

そんな自分だって、思えば顔を洗ったり化粧する時くらいしか自分の顔を一式で見なくなったな、と気が付いたわけです。トイレに行った際も大抵は家でない場合は大抵マスクつけてますし、マスクしている自分の状態を整えて出てくるようになりました。

そんな顔の下半分に無頓着になった自分が、相手にさらされた場合、しかも画面越しともなれば、それはもう何だか気恥ずかしい訳です。これは「いつも眼鏡かけてるけど、ちょっと眼鏡外してみるね」ってそういう話では利かないんですね。不本意でありながらも「隠していたものをさらす」感がありますよね、いや、隠しているんじゃないんですけどね。

隠していることに慣れてしまったわけです。

マスクを外した画面越しの自分って、そもそも自分も「見るために見る」ことがないもの。しかも顔の下半分って年齢も表情も全部物語る場所ですね、これもマスクが日常的になって認識しましたけど、下半分が色々決めてる気がします。口ほどにモノ言ってるのは、口周りだったんだなと。

髪を伸ばしている間、ずっと一つに結んでて、たまに解いてみたらめっちゃ伸びてたことに気付いた、って感覚が自分にはあるんですが、今回のこのことは少しそれに似ていて。あー、自分年取ってるんじゃん、着実に、と。気付かされたんですね、マスクと言うゴムをほどいたら、時間の経過を感じた訳なんです、あれ、そんなに放っておいたんだっけ。

自分のことなのに、知らないでいてしまった経過、少し寂しいものです。だからやっぱり「見えないからまあいっか」ではなくて「見えないけど見えてもいいように」ちゃんと自分は見ててあげることが必要だなと思ったのです。

マスクを取り合っても、自然な環境に早く戻りたいものだなと思います。そしたら、相手の事ももっとみてみようと思うんです。

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