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平気な顔で帰りを待っている

移動が規制される今、家族が離れて暮らすことの異常さを改めて感じている。別居とかの「その方がいい」離れ方は別にして、本当はいつも一緒にいたい家族が日々の生業の為に離れて暮らす日常を選ばなければならないことに対して、である。

物理的距離は心理的距離を必ず生む。そして不思議なことに離れた心理的距離は再び物理的距離を近づけたとしても、埋め切れない。あの時離れていた事実とそこに生まれた気持ちの隔離感はいつまで経っても埋まらない。

私は父がいたりいなかったりしたので、気持ちを振り回されるしんどさから逃げて「父はいない体で」子供時代を過ごした。たまに帰ってきても父は血のつながった居候のように存在していた。どうせまたいなくなるのだ、今がなんとなく穏便に過ぎれば、また母との二人の生活に戻る、それだけのことだった。

父は父で、離れて暮らす子供と久々に会ってもかける言葉に惑っていたと思う。例えデキる営業だろうと頭の堅い得意先の偉い人より、見えないバリケードを張った、言葉の届かない子供の方が交渉が厳しいだろう。それに父はデキる営業でもなければ、口が立つ人でもない。

今周りで関わる人の中にも、単身赴任で家族と離れて暮らしている人もいて、どうか子供らが私のようにならないようにと勝手に願っている。私だってなりたくてなったわけじゃないからだ。物理的距離が、お金も手段も持たない子供の心理的距離を遠ざけるのは、そんなに難しいことじゃない。

家族の関わり方は様々だ、一概に言えないのも承知だ。でも望まない隔離はない方がいいに決まってる。「食べてくためだもん、仕方ない」はやっぱり異常だよな、と今この時期に思うのだ。

だからと言ってその暮らしを降りる訳にはいかないのが、多くの人の現状だろう。ではどうするか。この異常さに気付いたのなら、それを埋めることに努めるしかない。「離れていない家族にはない」別の素敵なつながり方を家族で考え実行するしかない。思いを伝える、今を伝える、過去を振り返り未来を語ってみる。一緒に暮らしてたらくすぐったくてしないようなこと、やってみるのがいいんじゃないか。

今の時代はデジタルツールがいくらでも距離を感じさせない手助けをしてくれるだろうから、私の時とは全く違うだろう。だから私が考えているような提案じみたことは「そうしてくれてたら違ったかもしれないな」っていう思いなだけかもしれない。大人になった今だからこそ、子供の頃の自分がいまもぽつんと過ごしている絵が見えてくる。そうこんな風に、ずっと埋まらないのだ。


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