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変わらないものなんてない

家を構えた記念に頂いたアジサイの鉢。美しいブルー。元々好きな花だからとてもうれしくて、そのまま水をあげて見えるところに置いていた。花ってそういうものだとなんとなく思っていたが「そうか、この子は木じゃないか」とふと気づき、庭先に植え付けた。それが先週のこと。

裏に小山が控える我が家は、ドアを開けた時の視界を埋める緑率がとても高い。濃い緑、若い緑、時々幹の色といった具合に、大変目に優しい景色だ。そこに混ざった美しいブルーの青いことよ。朝なのにスポットライトを浴びるかの如く青が照り返す。こうして私の朝は贅沢になった。

この一週間、暑い日もあれば強い雨の日もあった。アジサイは我が家の庭に段々と馴染んで、幾分か奥の枝がくたっとなってきたな、とは思っていた。それが今朝、決定的な変化に気付かされる。

色が、変わっている。別人じゃないか。

この庭がつらくて逃げだしたいと言う弟の代わりに、近所でもそっくりと評判の姉さんがやってきたのか、と見紛う程、色が違うのだ。あの色が青すぎた。あなたはむしろ紫だ。紫陽花と書くぐらいだからあなたがスタンダードなのかもしれないが、何故一言でも言ってくれなかったんだ、そんな気持ちすらした。

勿論、同じあの子なのは承知だ。にしてもだ。そしてその土の持つ水のpHで色が変わることも承知だ。むしろ、そういうの素敵だなと思っていたくらいだ。分かっているのに受け入れがたいのは、認識と認識のはざまにズレが起きたからだ。ここに植えるということはそういう現実が待っている、と認識が浅かったからなのだ。変わらないものなどないというのに。

私は子どもを持ったことはないけれど、大学や就職で土地を離れる自分の子が変わっていく現実に戸惑う人はこんな感じなのだろうか。「木綿のハンカチーフ」で歌われる都会で変わっていく「あなた」を思う気持ちもこうだろうか。共通して言えるのは「それでもきっとあの青の可能性をまだ持っている」と信じていることかもしれない。

新しい場所で出会ったものと時間や暮らしを共有することで変わっていくのは、人もアジサイも同じなんだな。そう考えることで私のショックは少し和らいだ。きっと周りの植木や花たちは「前住んでた人の方が丁寧だったんだよ」とか「この人達が来てから仲間が少し減ったんだよ」とかアジサイに話して聞かせているに違いない。「最近私を見る目が変わっちゃった気がする」とアジサイがつぶやいていやしないか心配だ。

明日からまた声をかけよう。周りの植木たちにも少しずつ認めてもらえるかな。心配しすぎかな。

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