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明日でいいものを迎えにいかない

我が家の台所には、季節の野菜や果物の絵が描かれたカレンダーがある。例えば6月は青い梅の実がころころと描かれていて、梅雨の湿度や初夏の暑さを、梅に連想する甘さや酸味が和らげてくれるような絶妙な一枚だった。言ってみれば日付のついた絵画だ。

6月が終わるね、と口にしたら母がすかさず「次何だろね!」と言ったので「ダメだよ」と制した。今にも7月を覗き込みそうだったからだ。この類の楽しみは、「知らない時点の気持ち」のピークを「知った後の気持ち」は越えられないことが多い。いよいよその時が来ても自分のお手付きのせいでピークが既に過去になる。ここまで来たのだから、あと2日待てば順当に一枚の絵を迎え入れ、楽しむことができる。そっとしようではないか。

冬の話で恐縮だが、思い出したのが宴会コースの鍋を真っ先に覗く人のことだ。覗くからと言って、鍋奉行になって「水炊きはこうでなきゃいけない」だの「キムチは先に炒めた方がいいんだ」だのうんちくを語るでもなく、ただ確認する人が見ているとたまにいる。

宴会の鍋はその時期どこでも目にするメニューで、最早「何鍋か」は野暮な問いに近い。なんであれ楽しむとしたら「うわぁ」と言いながら「あったかいものが有難いね」とフタを開ける瞬間だと思う。その時「何鍋か」が分かっても、楽しむのに十分間に合うと思うが、先に見たがる人がいるのは事実だ。その割に「なるほど、そうですか」程度の反応の人が多いんですよね。「終わりかい!」と突っ込むのもつまらんので、「あ、今日もみた」程度に流してますが。

以前、豆腐の好きな上司で、先述のように鍋のフタを必ず誰よりも先に開ける人がいた。彼が真っ先に鍋を確認するのには訳があった。「豆腐があるかないか」その確認だ。豆腐があれば、自分の分の豆腐を皿に載せてフタを戻す。そこには「奴として食べたい」という彼の確固たる理由があった。妙に納得していた私たち部下は、まだ常温の鍋の中がとっ散らかったとしても何も言わずにいた。決して私たちは同じことをしないけれど、このコースの中で一人だけ自分だけのメニューを食している姿は、しあわせそうでもあり、贅沢なことに見えたものだ。

今やらなければならないなら止めないのだ。でも急ぐと勿体ないものには止まろうって言いたい。これは一緒にその瞬間を楽しみたいからに過ぎない小さな制しだ。

もうすぐ7月がやってくる。梅の実よりもっと夏寄りの食材が描かれているであろうカレンダー、あの一枚下にひと月スタンバイしている7月のページ。母と一緒に「うわぁ」となるために、もう1日がまんしてみる。



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