標を持つ、友を待とう

高速道路を走っていたら、遠く前方に鳥の小さな群れが向かってきた。前を走っていた大きなトラックがちょうどその中に入っていった、と思ったのも束の間、一羽の鳥に衝突した。一瞬だったからよくは捉えていないが、「痛いっ」と言うような翻る瞬間があって、羽根を広げたまま地面へばさりと倒れ落ちたのだ。

痛みのせいか、羽根を動かす。ばたつくことが彼に浮力を与え、2車線の真ん中あたりでぶわりぶわりと右に左に滑り出す。飛べるのか?かなわないのか見極めるには時間が足りなかった、ここは高速道路の上。動きを読めるくらいの速さにブレーキを踏み、いまだ喘ぐ彼の脇を通り抜けた。

上空には、さっきまで彼と道行途中だった数羽がいて、バックミラーの中で小さくなっていった。

きっともう彼らは一緒に飛べない。一人は下から友を眺め、友らは彼を上空から眺めるしかない関係になる。万が一保護されて傷を癒して空に戻れたとしたら、風を読み匂いを察して、友の、家族の場所に戻れるのだろうか。

もう元通りにならないものを、生きている間に大なり小なり経験する。それは「誰かの」かもしれない、「自分の」かもしれない。野生の鳥は羽根が欠ければ生きてゆけないが、人は何かが欠けても生きることをある意味強いられる。元通りを欲しながら、次を探すしかない。要は元通りにならなくても愛せるかだ。「誰かの」だとしても、「自分の」だとしても。

彼らがもし3羽の仲間だとして。風を読む係、周りを警戒する係、方角を決める係と決めていたとしたなら、彼がけがをしたことは彼らにとっても致命的で、目的地に安全に飛べないことになる。彼らが失ったものは、友の羽根だけでなく、己の羅針盤までもということになる。

突然標を見失うことは苦しいことだ。標と意識していなかった場合はもっと苦しい。自分で負わなければならなくなるのだから。

もう彼はダメだろう。友らは彼なしで今後を生きていく。あの道をまた横切らなければならない風が吹くかもしれないが、次の標は自分の中。





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