母との関係を断つ
私の家族はいわゆる機能不全家族というやつだ。
物心ついた時から家庭というものに緊張感を持っていた。
今日、母親と決別できる絶好のチャンスを手にしたので、今まで30年近く手放せなかった家族という呪縛から解放される中で、沸き立つ色んな感情で胸が苦しくなり、文章として吐き出してみようと思ったのでこれを書いている。
ただの回顧録であり、起承転結の意識も分析もあまりするつもりはない。
私には父、母、2つ歳の離れた姉がいて、父は日本国籍、母は外国籍だ。
姉も私も海外で生まれ、幼い頃に日本に来た。
そこから、母はもう30年近く在日している。
海外にいる時代はある程度裕福だったらしいのと、文化的にも家庭には当たり前のようにナニー(お手伝いさん)がおり、経済的には苦しくなかったようだ。
その後は父親の仕事の都合で、私は3歳で日本に移り住むことになる。
小さな頃の記憶はほとんどないが、飛行機の窓から雲と、小さな街並みが見えたことは覚えている。
そこから私たち一家はしばらく福岡にある父方の祖父母のもとで暮らし、すぐに同じ県内の戸建ての家に移り住んだ。
経済的に不自由のない、田舎での4人家族暮らし。
美味しいご飯や、お菓子を買ってもらった記憶は何故かなく、暴力のある夫婦喧嘩の記憶はあったけど、それが普通と思っていた。
そして小学校3,4年ごろまで進む。
ある日子供部屋でCDを聴いて過ごしていると、母親が唐突に部屋に入ってきて言った。
『これ何?』
見せられたのは、父親のスケジュールがプリントされた紙で、いろいろな女性の名前が日毎に書いてあった。
まだ8歳の私は、よく分からないけどヤバい代物だというのは感じ取れて、心臓の鼓動が上がり、硬直した。
『声に出して読んで。お母さん、日本語分からないから。』
親は絶対的存在だったので、私には『読みたくない』とは言えなかった。
そして、全ての女性の名前を声に出して、震える声で読み上げた。
すると母は鬼の形相になり、呆然と立ち尽くして下を向く私をそのままに、無言で勢いよくドアを閉めた。
その頃から、子供の頃の記憶がはっきりしてきている。
そして、楽しい記憶というものがほとんどない。
小学校高学年の頃、父親がリストラにあい、一気に生活が苦しくなった。
父親はもともと存在感がなく、覚えているのは時々家族に暴力がある夫婦喧嘩のことと、一緒に観る洋画のことだけだった。
リストラのことを父親は家族に説明しなかった。ただ、明け方になるとバイクでどこかへ行き、戻ってきていた。
母親は新聞配達に行っていると教えてくれたが、父のプライドのために、知らないふりをしていた。
それから父は部屋に篭るようになり、ホームレスのような長いヒゲを生やした。
時間ができたからか、私と姉に中学英語を教えてくれるようになった。
姉は途中で離脱したが、私は父親との時間が少しでも増えるのが嬉しくて、喜んで英語の授業を受けたし、あまり興味のない洋画も一緒に観た。
それからしばらくすると、父親が就職することができた。
ただ、それは福岡ではなく愛知県での就職で、単身赴任生活が始まった。
それが中学1年生の春。
そこから30歳の今まで、父親とは一緒に住んだことがない。
父が嫌がったので、愛知にあるという住宅を家族で訪れたことはなく、その後海外転勤でインドに駐在になってしまった。
母は父親の失業時代からパートを始め、その後も職場を変えながら続けていた。
日本語が不自由な母でもできる、冷凍食品の工場や、スーパーの生鮮食品加工など。
いつも頑張ってくれているのを知っていた。
学校から帰ると母の姿はなく、昼ごはんが必要な日は、冷凍食品のチャーハンをチンして食べる生活が続いた。
母は帰宅すると体のあちこちが痛いと常に私たちに話していた。
手がかじかんで辛い、肩が痛い、腰が痛い、重いものを運んでいる、仕事が辛い……
『私たちのために、いつもごめんなさい。』
そういった罪悪感を常に持っていたし、言っていた。
嫌ならやめてほしいと思ったが、お金が足りないんだろうと飲み込んだ。
でも、父親の就職先の賃金は良かったはずなので、違和感はあった。
母は『あなたたち(私と姉)がいるからやってる。本当は離婚したいけど。』と言った。
私たちは、私たちのせいで離婚できない母に申し訳なかった。
学校で配られるプリントは母が読めないので、自分で読んだ。
姉もそうしていた。父親には相談できなかった。電話すると、ほとんど繋がらず、繋がっても、真剣な話ははぐらかされた。
授業で必要な道具は買ってもらえなかった。
家庭科の裁縫セットは買ってもらえず、母親に頼んで連れて行ったもらった100円ショップで、自分でプリントを見て、全て集めた。
授業では、クラスメイトがカラフルな家庭科キットのプラスチックケースを机に出す中で、一人だけ100円ショップのポーチを机に出すのが恥ずかしかった。
彫刻刀のセットも同じだった。
体操服も買ってもらえず、お下がりのブルマをはかされた。
周りのみんなは青い短パンとラインの入ったTシャツで、私は真っ白なTシャツにブルマだった。
貧乏だから仕方ないと飲み込んでいたが、苦い記憶の一つだ。
その後母の故郷へ夏休みに姉と3人で一時帰国した時のこと。
夏休みが終わって日本に帰ってくると、自宅が泥棒の被害に遭っていた。
裏の大きな窓ガラスが割られ、おそらく何週間も家の中は出入りできる状態だった。
母は怖がり、家の中に入るのを嫌がり、まだ幼い姉に、家の中を見てくるように言った。
姉は一人で家の中を見に行った。
あの時もし犯人がいたら、姉はどうなっていたんだろう。
なぜ、母は母自身や警察ではなく、姉にそんなことをさせたんだろう。
泥棒はもういなかったが、荒らされた自宅の居間のソファーには、大きな包丁が置いてあった。
この出来事があまりにショックで、そこから私は家に一人でいるのが怖くなってしまった。
母親に伝えても、気にしすぎだと言われ取り合ってもらえず、そこから精神的におかしくなってしまう。
まず、壁の中に人が隠れている気がした。
そして、カーテンの隙間から人目を感じた。
ゴミを荒らされていると思った。盗聴器もあると思い、家中のコンセント製品をドライバーで開けた。
お風呂にも静かに入った。音を立ててはいけないと思い、ほとんど洗わなかった。夜でもお風呂の電気はつけなかった。
夜も物音が怖くて眠れず、ずっとCDを聴いた。家では必要なこと以外言葉を発せなかった。
明け方には、外から幻聴が聞こえるようになった。
その生活を真横で見ていた母親は、何もしなかった。
私と話すこともなく、怯える私を疎ましく思い、叱責した。
一度だけ懇願して連れて行ってもらった心療内科では、自分の状態をうまく話すことができず、母親の苛立ちが怖くて、すぐに大丈夫ですと切り上げてしまった。
これは中学生の時の話だ。
その後母親は、小さな会社の事務の仕事を始める。
これは奇跡だった。ひどい言い方をすると、母は学がなかった。また、地頭もよくなかったので、肉体労働しかできなかった。
事務の仕事は到底つとまらないと思ったが、奇跡的に採用された。
しかし、やはり母は仕事ができず、パソコンの電源の入れ方もわからなかった。用紙の印刷もできず、メールを開いてみることしかできなかった。
私は、母親の仕事場に連れて行かれた。そして求められていた仕事については私が全て代わってあげた。母は当たり前のように振舞った。
嫌だったが、一人で家に留守番する方が私には辛かった。
高校生の頃、母の職場に頻繁に出入りしていた日本人男性がいる。
やけに距離の近いその人は、母親の不倫相手だった。
姉が偶然見た母と不倫相手のメールで発覚した。
私も不倫相手に送る性的な画像を見つけた。
姉は私に子供部屋で待つように良い、母と話をした。
ここからは姉から聞いたことを断片的にしか覚えていないが、
要約すると夫婦生活が昔からなく、私と姉は、母が寝そべる父に、泣きながら能動的にした子作りの結果ということだったことや
父からの愛情表現がないのでこうするほかなかったという内容だった。
父の性事情も赤裸々に話した。姉もまた幼かったのに。
私と姉は悲しんだ。私は、無理矢理できた子供だったのか。
そして、母が離婚して帰国できない理由そのものでもあったのか。
その後職場には不倫がバレ、母は突然解雇され、自宅には不倫相手の奥さんが押しかけてきた。
母は玄関のチャイムが鳴ると、
『どうしたらいい』と私に言った。
私は、『大丈夫だよ。お母さんなら分かってくれるよ。』と言ったが、結局相手との対話の窓口になったのは私だった。
母は、
『私のことをわかってくれるのはあなただけ』
と言った。
母が度々家出を試みた時は、母のしていたエプロンや、母の枕に抱きついて匂いを嗅いで泣いた。
結局戻ってくるのだが、謝罪はなく、何食わぬ顔で日常に戻っていた。
母親にハグしてもらったこと記憶がなく、覚えているのは私から抱きついたことだけ。
その時に感じた母親の匂いが、いまだに胸を苦しめている。
その後社会人になり家を出た私は、現在の夫と知り合う。
夫の家族は、まるで絵に描いたような温かな家庭で、他人へのマナーもしっかりしており、カルチャーショックだった。
もしかしてこれが普通なのか?映画や漫画で見る世界は本当にあるのか?
そうして徐々にはじまった私の認知の自覚の過程は、とても苦しいものだった。
仕事をしながら体調も壊れたし、それでも、社会人になって家を出ただけなのに、母は私に頻繁に連絡し、
『家族を捨てて好きな男と好き放題している』
と私に罪悪感を植え付けた。
この気持ちをどう表現したら良いのだろう。
全てがいびつで、普通のそれとは違う。でもそれを分からなかった。
人はみんな、こういった辛さを持って家族を大切にしているのだと思っていた。
この思考は20代後半まで続いた。
夫と結婚して、しばらくして第一子を妊娠した。
それでも母の連絡は続き、私はまだ『自分がケアしないと可哀想』という思考に取り憑かれていた。
大きなお腹を抱えて、私が調べた心療内科に毎回同席した。
医師を信用しない母に、投薬を全て調べさせられ、ネットの情報を英訳させられた。
その頃私は二重国籍のため、他方の国籍放棄手続きなどもあり、私生活もかなり忙しかった。でも、母をケアするのは義務だと思っていた。
毎日電話をかけ、『今日は大丈夫?ごめんね、いけなくて』と、無料カウンセラーをした。
早朝や夜中の連絡にも応えた。
なぜだろう、私が孫を産めば全て良くなると思っていた。
母は元気になり、私も幸せになれると思っていた。
子供を産んでも干渉は続き、ストレスは常に限界だった。
仕事の最中にもお構いなしに電話し、一通り泣き叫んだら、『私は間違っていない。』『あなただけなの』『私は可哀想な人生を送っている』『あなたたちのために尽くしたのに』と。
自分で自分の機嫌は一切取れない人だった。
また、何度も話を試みたが、母は日本語が30年たってもできず、英語もままならない。(日本語ができないのは自分が勉強しなかったからではなく、周りが教えてくれなかったからだそうだ)
意思の疎通は完全に不可能だった。
父に連絡をとり相談したこともあるが、仕事が忙しいからと取り合ってもらえなかった。
第二子を産み、今、その子は1歳3ヶ月になる。
母が一緒に暮らしている犬の老犬介護が必要になり、また私への罵倒が始まった。
犬の夜泣きがあるから一人では生活できないそうだ。ちなみに、介護が始まった初日のことだ。
私は乳幼児がおり、仕事があり、家庭があり、どうしてもすぐにそちらにいけないと話すと、
『あんたに来て欲しいなんて言ってない』
と突然拒絶された。
母は犬の介護施設を探せと言う。
私は探し、教えてあげた。
そして電話口で、この件が落ち着いたら縁を切ろうと伝えた。
母はヒステリーを起こし、勢いのまま承諾した。
子供たちには悪いが、悪影響な人には合わせなくて済む。
私は私の人生を歩む。
ホッとすると共に、様々な感情が溢れてきた。
まだその感情に名前はつけられず、涙も出てこない。
早々と東京に逃げた姉に、物理的距離を取ることをすすめられ、この街を離れようと考えている。
とても疲れた。
普通の親とはなんだろうか。私はそれを我が子に提供できるだろうか。
二人の人生の邪魔をせず、罪悪感を植え付けず、楽しい思い出を記憶させられるだろうか。
私の人生を歩もうと決めた。
ごめんねは言わない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?