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ヨルシカ「ヒッチコック」に見る、支援者の「態度」

昔のエントリーを追記&お引越し。ヨルシカの「ヒッチコック」で表現されている「先生」から、「支援者の在り方」を考えています。

ヨルシカ「ヒッチコック」を視聴する。


まずは、このエントリーのお題である、ヨルシカの「ヒッチコック」をご視聴下さい。


「ヒッチコック」で表現されている「先生」を考える。


稀代の臨床心理家であり、精神科医であったミルトン・エリクソンは、こう述べました。

「観察だ。患者と自分自身を観察すること。これによって 治療に必要な情報はすべて自分のものとなる。」

私達は、基本的に「自分に興味がある生き物」です。

だから、ついついクライエントを「自分に重ね合わせてしまう」んですね。

しかし、クライエントと支援者は、当然「異なる存在」です。

この「異なる存在」という観点から、ヨルシカの「ヒッチコック」という曲のMVにおける、「先生」と呼ばれる存在を「観察」してみると…

この「先生」が不思議な生き物であることに、初めて気づきます。

つまり、「意識した観察」が無ければ、ほとんどの非言語メッセージは、私たちの意識をスルーしてしまうんですね。


(引用:ヨルシカ「ヒッチコック」)

いかがでしょうか。

まず、「クチ」がありません。

そして、「両腕」もありません。

しかし、「目」は大きく、「耳(らしきもの)」は、ウサギのように長い。

その「立ち位置」は「鏡」のように「対称的」。

(引用:ヨルシカ「ヒッチコック」)

(少し分かり辛いですが、ここでは「影の長さ」まで、少女とほぼ同じに表現されています(0:11~))

(引用:ヨルシカ「ヒッチコック」)

更に、その「振る舞い」は、おなじ「リズムを刻む」(3:02~ペーシング&共感)。

(引用:ヨルシカ「ヒッチコック」)

このシーンでは「先生」と「少女」が、足で同じリズムを取っていることが分かります。

足の長さが同じであることも分かりますね。もしかすると「歩む歩幅が同じ」という意味を込めているのかもしれません。

「先生」という言葉から、何らかの指導者的立ち位置ということは想像できますが、この「先生」は、少女の様々な「問いかけ」に何も答えません。

だって、「クチ」が無いのだから。

手を取って、連れて行くことも、何かを指し示すこともない。

だって、「両腕」が無いのだから。

ときには

「先生、どうでもいいんですよ。生きてるだけで痛いんですよ。
 ニーチェもフロイトもこの穴の埋め方は書かないんだ。」


「これでも本当にいいんですか。このまま生きてもいいんですか。
 そんなの君にしかわからないよなんて言われますか。」

と詰られる。

時には目の前で、少女は大きな穴に、「飛び込む」。

だけど、何も伝えない。

できることは

ただその大きな目で「見つめ」、長い耳で「聴く」こと。
「鏡のように、『映し返す』こと」
「同じリズムを刻む、つまり『共感する』こと(とペーシング)」

そして

「寄り添う」こと。

(引用:ヨルシカ「ヒッチコック」)

大きな「目」と長い「耳」で「相談者をしっかりと見聴き」し、そうしながら「共感し、寄り添う」。

「クチ」があれば、教えてしまう。

「腕」があれば、指し示してしまう。

その「在り方」を戒めているような姿は、支援者の「ツラさ」を表現しているのかもしれません。

その他にも、例えばこんな「ワンダウン」な立ち位置も表現されていますね。

(引用:ヨルシカ「ヒッチコック」)


あなたは、いくつ「支援者としての在り方の表現」に気づきましたか?

イラストレーターやデザイナー、小説家に漫画家、作詞作曲家等、あらゆる表現者はテキトーに作品を作っているのではないはずです。

観察の練習・訓練として、作品に込められた意図を考えてみるのはいかがでしょうか。

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