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#2 いじめ研究と私

皆さん、こんにちは。Makiです。


今回は、私の根とも言える「いじめ研究」について書いていきたいと思います。


なぜ、私がいじめの研究をするに至ったか、いじめの研究を通して何をしたいのかについて、原体験を踏まえて私の思いを書きます。


それでは、目次です。




1.私といじめの原体験(小学校)


私が「いじめ」と初めて出会ったのは小学5年生の時です。私と同じクラスの子や以前からかかわりのあった子が関与していました。

その当時は悪口や仲間外れ、陰口などの「関係性いじめ」が主だったものでした。

元々私自身、刺激に対して過敏に反応してしまうキャラクターであり、なおかつ太っていたことが彼らからしたら面白かったのでしょうか、5年生の大半はターゲットにされていました。

小学6年生になると、学校でも厳しい先生が担任になりました。しかし、その先生とは社会科の勉強で話をすることが多く、先生が出したクイズに正解したらデータブックをくれるなど、よくしてくれた先生でした。

その先生の指導もあってか、5年生に起きていた関係性攻撃は6年生になると落ち着き始め、自然消滅という形で経過しました。しかし、投げかけられた言葉や脅しは学年が変わっても尾を引き続け、同級生とかかわることが苦手になっていきました。

結局、謝罪の言葉などはなく、曖昧なまま中学校に進みました。

しかし、本当に苦しい時期は中学校でした。



2.私といじめの原体験(中学校)


中学校に入学した私はサッカー部に所属しました。
そこでも、体型や同級生とかかわるのが苦手であったことを理由に、入部間もなくから暴力を含むいじめに遭うようになりました。

罵詈雑言は日常茶飯事となり、殴られたり蹴られたり、時には体育館倉庫で暴行を受けるといった、何かドラマなどで見るようなことを、現に自分の身体を以て体験しました。

これが3年生に上がるときまで続きました。
3年生になると部活を引退するほか、高校受験もあり、加害者とはかかわる機会が減ってきたことでいじめは落ち着き始めました。

この時も謝罪はなかったですし、自分が抵抗したことを加害者が論い、私にも悪いところがあると喧嘩両成敗にされたこともあり、この経験がトラウマになりました。

先生はいじめを止められない、救ってはくれない、そんな諦念が私の心を支配していました。

しかし、この時から私の中では「なぜ、彼らはいじめをするのだろうか」と疑問を持ち始めました。
その同時期に、いじめ防止対策推進法制定の契機となった滋賀県大津市のいじめ自殺事件がニュースで取り上げられていました。

私は「自分のような思いをしているのは全国にいるし、自分の周りにもいた、なぜこんなことが起きるのか」そのことばかりを考えるようになり、自分のトラウマと向き合おうとしました。



3.私といじめの原体験(高校~大学)


中学を卒業して、私が入学した高校の学科では、普通科とは異なり、1年次と2年次に論文執筆をする科目が独自に設定されていました。その科目では自分で調べたいことをテーマに設定し、1年かけて調査を行なって論文にしていきます。

その時に私は「なぜいじめは起きるのか」をテーマにしようとしましたが、担任からは「重たいし、1年ではまとめきれないだろうから別のテーマにした方がいい」と言われ、別テーマで2年間論文を書きました。

しかし、今からするとテーマにしてもしなくても、私にとってのいじめは終わらないことを実感し始めたのはこの時だったと思います。

高校では幸いにもいい仲間に恵まれ、部活もクラスも何とかなじむことができました。しかし、ささやかな日常が続くほど、過去の苦しい記憶は鮮明になる。この時からいじめの記憶が夢に出始め、悪夢のようになっていました。

もう目の前で罵詈雑言を浴びせられることも、暴力を受けることもない。なのに、うなされる。日に日に鮮明になっていく。私はただ思い出さないようにするしかありませんでした。

記憶を凍結させるのです。とにかく、思い出さないように。

しばらくは、こうすることでやり過ごすことができました。しかし、高校3年生になると状況は変わります。大学入試で私は教育学部を志望しましたが、その二次試験で面接試験があり、面接で教育に関することを答えられるように練習をしていました。


その際に、面接練習に付き合ってくれた先生から言われたある質問が凍結させた記憶を溶かしていきました。


なぜ、あなたは教師になろうと思ったのですか?


ものすごく自然で、絶対に聞かれる質問だと思います。しかし、私は答えられませんでした。思い出さないようにしていたいじめの経験が、私が教師になろうと思った理由なのです。

蓋をしていた記憶を思い出した私は、気持ちの整理がつかずにその場で泣き出す始末。とてもではないが、人に話せない。試験本番も泣くのを我慢して、違う理由を取り繕って面接に答えていました。

もちろんこんな状態なので試験は不合格。滑り止めで受けた私大に通うことになりました。


私は、この大学4年間で「もうこうなったらとことん向き合おう、なぜいじめが起きるのか、自分なりの考えを導き出すんだ」と考えを変え、ひたすらいじめにまつわる文献を読み漁りました。

その中には自分の経験に近しい事例もあり、今でもそうしたものを読むとゾッとするような感覚に襲われます。

しかし、それでも私はいじめのメカニズムを解明したかった。
いじめに今苦しむ人や苦しめられた人のため、何より苦しめられた私自身が救われたいがため。あの忌まわしい経験に意味が欲しかった。

その思いは今も持ち続けたまま、学部の卒業論文でいじめ現象が起きるメカニズムに関する理論仮説を構築し、大学院ではその理論仮説の一端を実証的に研究しています。



4.凍結した記憶と融解した記憶の狭間で


ここまで、私のいじめの原体験について書いてきました。

私にとって、この原体験は「忌まわしいものでもあり、でも今の自分を形作っているもの」という両側面を持つ経験と捉えています。

もちろん経験しないことに越したことはないです。同等に扱われず、日々虐げられるこんな経験。しなければよかった、しなければどれだけ楽だったか何度も考えました。

そんなことを考えては嫌になってリスカしようとしたりと、とにかく不安定でした。でも切れなかった。自分がかわいかったからか、自分すらも自分を大事に扱えないのかと失望したのか。今となってもわかりません。


でも、その経験のおかげで今の私が存在していて、かつ研究を通していじめを減らしたいと日々動くことができるようになりました。


いじめは人を死に追いやる。実際に亡くなった子どもも数多く存在する。私は、いじめの中で何の因果か生き残った。

顔も名前も知らないけれど、生の望みを断たれた子どもの無念にも、生きたいという生への希望にも思いを巡らせ、この世界からいじめで死を選ぶ子どもがいなくなるように、私のできることをやっていきます。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この思いが誰かの心の片隅に留まりますように。


Maki

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