2021/11/15の日記

2020年の半ばごろから私は声劇のレビューを書くようになった。

レビューを書くようになった理由は、声劇プレイヤーたちの活動に強い情熱を感じたから。
そして、その強い情熱がただなんとなくのうちに終わってしまうのが、勿体ないと思ったからだ。

声劇は人口割合のほとんどがプレイヤー(演者・役者)で占められている(と私は思う)。

プレイヤーの中には台本を執筆したり、BGMを創作したり、音響をつけたりする兼業クリエイターが一定数いる。
プレイヤーの属性を持たない専業クリエイターはごくわずかである。

専業リスナーに於いてはほぼ居ない。本当に居ない。
リスナーのほとんど全てが『兼業リスナー』だ。

演るし、聞く。なんなら書く、というのが声劇界隈の基本スタンスになっていると感じる。

これが良いとか悪いとかどうこう述べるつもりはない。
また、声劇というコンテンツの未来を憂うつもりもない。

そもそも総人口の少ないジャンルでは、生産者が消費者を兼ねることは珍しくない。
自分の時間を使って、共演者と折衝して、思う存分お芝居に打ち込む。
これはとても良い趣味だと思う。終わった後の充実感が凄いと思う。

この活動に生産性があるかどうかは、正直趣味なのだから別にどうだってよい。
その人の勝手だと思う。

でも
「打ち込んだ情熱に対して精神的なリターンがもっとあっても良いよな」
というのが私の率直な感想だ。

金銭的なリターンはまた別の話として、どうしたら精神的なリターンが生まれるかを考えて、すぐ出てきた答えが客の存在だった。

客がいる、という認識だけで芸事の手応えは変わると私は思っている。

お題は見てのおかえり、という言葉ではないが
『見られている』ということが心地よい緊張感を与え、最終的に達成感を大きく強いものにしてくれると思う。

客は客でも、身内客というものはちょっと意味合いが違う。
悪い意味でのお互い様精神が働き、悪い意味で緊張なくリラックスできてしまう。

別段、何の損得も何の忖度もない関係の客がいること。
これが強い情熱を受け止めてくれるまず第一の器だと私は思う。

「ちゃんと客として見たよ、聞いたよ」というメッセージを形にするならば何が良いだろう?

私の答えはレビューだった。
私がプレイヤーではない、そちら側に立たない者である証明として
賛辞や感想ではなくレビューという形が重要なのだと判断した。

そんなこんなで一年ほどのんべんだらりとレビューを書いたり
プレイヤー、クリエイターと交流したりして過ごした。

飽きてきた……。
直球ですまない。

が、死ぬほど飽きてきた。

私が飽きてきた理由はごく単純だ。
このやり方ではドキドキするようなプレッシャーをかけれてないからだ。

予定調和が働いてきてしまった。

働かせてしまったのは全て私のせいだと思う。

ああ死ねやデウスエクスマキナ!

それで、お酒をグビグビやりながらいろいろと考えた。

考えた結果、プレッシャーをかけうるレビューを作るために
psycho ballet というプロジェクトを使うことにした。

これはもともと私個人が楽曲を作ったり、よくわからない企画を立てるときに
使っていた企画名である。
(サイケデリックとクラシックバレエとsoft balletが好き)

専業リスナーを増やそうと試みた過去がある。
専業リスナーの数が増えるということは精神的リターンが増えることと同義だと思ったからだ。

見込みリスナーはみんな、お芝居を聞くまではよかった。

それをレビューにして相手に届ける作業が面倒くさいという。
まあしょうがないよね。面倒くさいのは事実。

そういう死にかけのヒナみたいなを
全部まとめてpsycho balletにぶん投げてもらい
こっちの方で勝手に成形してレビューにして
情熱あふれるプレイヤーに打ち出せればいいなと思っている。

さあ豪速球でキャッチボールしよう。顔に当てよう。(しば)


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