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天の国

 その日、登れる雲に最初に気が付いたのはアロマおばさんだった。宇宙色の空にオレンジの光がかかりはじめる頃、すこし冷たい空気を吸い込みながら、いつも通り山積みにされた洗濯物を甲板に出す。その時は―――生まれたばかりの末っ子の下着が少々軽すぎたのか―――あっと声を出すよりも早く、一迅の風が布を舞い上げた。
いつもなら目の先にぺしゃりと落ちるか、風が運べば船の外…そのまた下の海中へ落ちていくはずだった。
が、この日船体にかかった薄い雲に、その下着が引っかかったのである。

空中船上都市ベレロフォンがどのようなからくりで空に浮いているのかは誰も知らなかった。船は前から空を航行していたし、それが当たり前であったので、聞くものもいなかった。ただ「そういうもの」だった。海上を何艘もの船がゆったりと移動していく様は、空を飛べるものから見たら美しく映えるだろう。しかし、ベレロフォンで生まれたものは自分が生まれた船からの眺めが世界の全てだった。
その日ベレロフォンを覆った不思議な雲は、その上層に大きな島を抱えていた。空に浮かぶ船上都市群よりもさらに上空に浮かぶ島。天から眺めることが出来るものは、その島の上にいくつか建物があるのを見るだろう。生き物の気配がないにも関わらず、その空中の島にはところどころ建造物が見てとれた。広大な草原の中央には、石で出来た円卓さえある。そこへ、ベレロフォンの市民が辿り着きはじめた。

今やベレロフォンの全市民が雲を登って天上の島を目指していた。ベレロフォンを統治する元老院の重鎮は空中庭園へ辿り着くや否や石の円卓へ駆け寄り、ここの土地の分配は許可がいるとわめき散らしている。

上が賑やかになる頃、下で皆の様子を眺めている少女がいた。少女の立つ船首のふちは生垣で飾られ、青々とした緑の葉のむこうにはいくつもの空中船と輝く水面が見える。

「行かないの?」
ぼうっと皆を眺めている少女に、近所の船から移ってきたであろう子が語りかけた。自分は登りにいくところなのだろう。
「みんなはどこへ行くの?」
少女は問いかけた。
「天国だと思う」
誘いをかけた子は無邪気そうに答えた。みんなこれから空にあるとてもよいところへ行くのだ。だからきっと、そこは天国と言うに違いない。
自分を置いて雲を登るその子を見送り、少女は再び船首に植えられた植物のむこうを見下ろした。
「この前、おねえちゃんがこの下にいったんだ」
眼下には変わらず美しい景色が広がっている。
「みんなはおねえちゃんが天国に行ったって言ってた」
それから少女は再び雲を見上げた。
「みんなはどこへ行くというのかしら」


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