日清どん兵衛と母の思い出
どん兵衛は特別
普段カップラーメンは、ほとんど食べない生活になりました。
でも時々食べたくなるんですよ。
あと乗せサクサクも美味しいけど、わかめとか入っていてシリーズの中でも肉うどんが一番好きです♪
小学生の頃の朝食はどん兵衛
私がミニで、2つ下の弟は特盛。
母は、朝ごはんを食べるタイプ人ではありませんでした。
大きな白いビニール袋にいろんなカップ麺が入っていて、朝はそこからどん兵衛を取り出します。
ボンっと大きなポットが常備されていて、再沸騰のボタンを押します。
お湯を注いだら、少し待ってから蓋をめくって混ぜ混ぜして、蓋の上に苦手だった甘いお揚げを乗せます。弟がいつの間にか食べまます。
学校で朝ごはん何食べた?って会話の中でどん兵衛って答えたら友達が目をまん丸にして驚いてましたね。
なぜか、羨ましそうでした。
今思うと、普段食べないんだと思います(笑)
高校一年のとき
そんな朝食でも大きな病気もなく私も弟も成長していったわけですが
高1のとき風邪をこじらせてしまいました。
高熱が中々下がらず、原因不明で即入院。
個室に隔離される事態になりました。
もっと早く来てくださいって言われたちゃったみたいなんですが…
母は私に病院行こうか?って聞いてくれていました。
40度超えては薬で下げての繰り返し、2週間は点滴だけの栄養だけで生きてた感じでした。
体温が40度超えると蛍光灯が波のように揺れるんですよ( ゚Д゚)
それでもどん兵衛が食べたくなる
何とか少しづつ熱も下がってきてリバースしながらも食べれるようになって回復してきました。
あたりまえだけど、出てくるのは毎食白いお粥。
そして私のお粥イヤイヤ期が始まります(笑)
祖母もご飯のお供とか作って持って来てくれたけど、普段できないようなわがまま言ってました。
何が食べたいか聞かれて私は迷わず、どん兵衛と答えました。
別に大好物って訳ではなく何となく食べたくなりました。
もっとあるやろ!って母も祖母も思ったでしょうね。
どん兵衛食べてるときに先生が入ってきて何故か焦る親子。
先生は食べられるものがあれば何でも食べていいですよって感じでした。
めっちゃ痩せてたと思います。
髄膜炎など、いろいろ心配されていましたが検査結果は酷いおたふく。
そして、やっと面会禁止はとけ、女性のみ面会可能だったので何でだろう?って不思議に思っていると…
主治医が検査結果の説明に来てくれました。
シーンとした空気感の中で、真面目な顔して金玉って言ったんですよ。
高1女子の前でキ・ン・タ・マ(゜゜)
おたふくになったことがないと、精巣炎を起こして不妊になる可能性があるそうです。
簡単に説明しようとしてくれたのはわかるけれども…
主治医が病室から出た後は、母と目が合いドン引きからの失笑でした。
18歳で私を出産した母
韓国ドラマみたいなこと言ったら、恋に仕事に遊びに大忙し、友達も多い母。
18歳という若さでお腹を切って私を産んでくれたので、苦労や葛藤も多かったと思います。
さらに甘えん坊の泣き虫な弟がいたので、私が甘えられるスキはありませんでした。
でもこの入院期間の3週間くらいで一生分甘えることができました。
ほとんど、高熱で意識とんでたけれども(笑)
独り占めできた感覚は後にも先にもないでしょう。
病室の窓から、小さく見える母を毎日探してました。
来るのを待って、帰るときも小さく見える母を見ていました。
何度か気づいてくれて、とてもとても嬉しかったのを思い出しました。
脳の記憶は無責任
高1だったので、はるか昔。そりゃ忘れます(^_^;)
こんな大切な思い出を消し去ってました。
母とはぶつかる事のほうが多かったです。
お互い口が強く、本心を隠すように相手のダメな部分を攻めてよく喧嘩してました。
脳はイヤな記憶をわざわざクローズアップして出てくることがあるように思います。
実はもう母が亡くなって10何年になるのですが入院したことを思い出したのはかなり後です。
どん兵衛で母のことを思い出す
ある時、体調が悪く精神的にも辛くて食欲もなかったのですが、ずっと口にしていなかったどん兵衛がふと目に映りました。
誰かが買ってきていたようで、遠慮なくいただきました。
もぅ美味しくて美味しくて!
涙がボロボロ流れてきて、入院していた頃の思い出がいっきに蘇ってきました。
あっという間にスープまで飲み干しました。
何で、忘れていたんだろう…
号泣したのに優しい気持ちになりました。
母親という存在
何歳になっても母親って偉大ですね。
私たちはぶつかる事が多かったし、ひどい言葉を言い合ったこともあります。
圧倒的に母が強かったですが…
だんだんと口調が弱くなっていくのがわかりました。
会うことも声を聞くのすら嫌だったこともあります。
許せない感情もどこかにありました。
でも、大好きなんですよ。
ふらついて立てなかったときも、もういないのに出てきた言葉が、お母さん助けて…でした。
甘えさせてもらえないんじゃなく、甘えなかったのは私なのかもしれません。
亡くなったというたったこの一言が、母がいなくなってから3年は言えなかったです。
あんなに嫌だった声がとても恋しくなります。
これを読んでくれた方が、もしも今お母さんと険悪な状態だとしたら、お互いが生きてるうちに、ほんの少しだけ考えてみてくれたら嬉しいです。
別れはいきなり。いつかはありませんでした。永遠もありませんでした。
親子という事実は永遠です。
毒親とか親のくせにとか娘なんだからとか親ならやって当たり前とか頭で心配したり不安に思ったりイライラ考えちゃうけど、
心底嫌いじゃないと思うんです。
内側の自分は真逆だと思うんです。
険悪な状態のままだと、日常にある幸せがわからなくなってしまいます。
私は、結局のところやっぱり大好きでした。
病院の夜
ちょっとだけ、叔母のエピソード。
心配してくれていた優しい叔母から、携帯に連絡があり
話を聞いてもらっていました。
何せ、病院というのは夜になるとガラッと雰囲気が変わります。
個室にひとりなので、怖さ倍増です。
就寝時間になって、叔母との楽しい電話の時間も終わりにしなければなりません。
電話を切る直前に優しい言葉と思いきや、
「窓ばみてごらん、カーテンの隙間から・・・」
もーええって!
ホラー映画大好きの叔母は、ひゃっひゃ笑いが止まらないんですよ。
私は、今でも夜になると隙間なく、カーテンぴっちり閉めています。
退院当日
たぶん平日の午前中だったかな?
何が食べたいか聞かれて、どん兵衛!とは答えませんでした。
お粥三昧だったので白いごはん🍚をリクエストしました。
家に帰って炊きたての…🍚ではなかったけど、ファミレスで退院初ごはんをいただきました。
ハンバーグセットをペロッと食べたことをのちに何度も笑いながら話していました。
元気になったことが嬉しかったんでしょうね。
退院後も色々とぶつかってばがりでした。
無理やり大人びて迷惑かけないようにするより、甘えてるくらいが可愛いかもしれません。
体調が悪くなることはめったりありませんが、時々どん兵衛を食べて温かい気持ちになってます( ´∀`)
☆最後まで読んでくれて本当にありがとうございます☆
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