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フィルム。

いまだにフィルムって需要があって根強い人気があるのですね。うちも時折プリント出力するので近所の写真屋さんでお願いしてます。でも、もうフィルムの自現機もなくなり、置いているのは業務用プリンターだけになり、他のお店はどこも閉めてしまいました。お節介なネット情報には勝手にうちを写真館のカテゴリーで載せているせいか、時々電話でプリントして欲しいとか、現像出来ますか?なんて問い合わせが来る。時期が来ると七五三や成人式の記念写真、はたまた葬儀用の遺影写真まで問い合わせが来るに至っては、皆さんよほど困っているのかとも思う。ここら辺は年寄りの多い地域だからなおさらかもしれない。
来ていただいても良いのだが、写真館のような応接セットも無いし、雑然としていてお客様を迎えてという雰囲気はみじんもない。時々、直接来られる方もいるが、ドアを開けて二三度、中を見回して、写真屋さん、、、じゃないですよね、すいませんって帰って行かれる。

 その昔、写真好きだった父親が今でいう脱サラをして、モノクロのいわゆるDPE、現像紙焼き引き延ばしの店をはじめた。昭和30年頃ですが、当時はカメラの販売などしなくても、暗室に入って現像と紙焼きだけで十分食えたらしい。百貨店の写真室で雇われカメラマンなどもしていたようだが、その後、ショーウインドウのある店舗も構えてカラーのDPEとカメラ販売に卒アルなどの学校写真もやりはじめた。そのため縮小はしたが暗室も残していて、近所のカメラ好きのおじさんたちの作品作りに紙焼きもやっていた。警察や消防の写真担当の人も現像紙焼きを頼むついでに、父に撮り方、ストロボの扱い方などを相談していたようだ。ということで、私も子供の時から暗室に入り浸り、紙焼きを見よう見まねでやっていたおかげで、この仕事にありつけた。
 最初のスタジオのフィルム現像は深タンク(深さ1mくらい 30センチ四方の筒四角い筒)が設置されてて、暗室には、ラッキーのエンラージャーが二台、バットも大きなのが現像、停止、定着と並んでいた。まだ、プリントを洗う水洗タンク(ドラム式洗濯機みたいな形状のもの)やでっかい回転式の印画紙乾燥機(ヒーターの入ったローラーに布で押し付けて乾燥させる装置)、それにロッカーのようなフィルム乾燥機もあって使ってた。
フリーになってありついた関西の情報誌は、ほぼ白黒の雑誌だったので、撮影すると自分で現像から紙焼きまでしていたが、他のカメラマンの人たちは出入りの現像所に頼んでいた。ベタまで取って納品だったから、出稿用のプリントはそこでやってたかもしれない。そのうちカラー化が進み、ほぼカラーの新雑誌も出て、そっちに仕事の比重が移り、暗室に入ることも少なくなった。フィルムと言えば、最初の頃はやはりコダック。たしか支給されてたと思うが、なんでもかんでもTRI-Xだった。ステージなどは増感して3200で使っていたはず。ある時、フィルムのところどころに小さな白い点々(白というか焼くと黒だけど)が出たことがあった。私のだけじゃなくほかの人もだったので、長瀬産業にフィルムに問題ないのか?と聞いたら、現像で気泡でもついたんでしょう、という返事。他の現像所でやってみてもらったらまた出たので、再度文句を言ったら、そんなはずはない、うちでは問題ないの一点張り。腹も立つので勝手にネオパンを使ってたら、しばらくして長瀬の担当が、TRI-Xを一箱50本入りだったかを持ってきて、すいません、製造時の不良でした、と。愛想も尽きてたので、二度とコダックのフィルムは使わないからって突き返してやった。他の仕事ではまだ120も4x5も35もEPRを使ってたけど、それをきっかけに評判の良かったフジのプロビア、RDPに全部乗り換えた。クリエイトはフジ系のプロラボで、まだコダックが優勢だったんでしょう、口座もすぐ開いてくれたしすごく良くしてくれた。なにしろ、駆け出しのフリーのカメラマンなんて、当時、信用なんてゼロ、クレジットカードも作れない、堀内(HCL)はダメ、イマジカは付き合いがあった少し偉い人の口添えで渋々口座をひらいてくれた感じ。それまでいろいろ買ってた機材屋はスタジオを辞めたとたんに、現金でしか売ってくれなくなった。ま、それぐらいしないと踏み倒すやつ、逃げるやつ、一杯いましたから。
*表題の写真は、その昔、ラボから貰ったピーケース、35フィルムのケースです。ブツ撮りの時に下に噛ませたり、袋物を立てたりするのに使ってます。左のは二個つなぎ、右のは半分に切ってます。少ないけどコダックの黒もある。もう30個ぐらいしかないので大事に使わないと。


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