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丁稚Ⅱ。

 スタジオに入ったころ、40年前の待遇はアルバイト以下、保険、年金はおろか、何の保証も無く、給料も安いし(最初は5万だった)、パワハラ、モラハラ、なんでもありだった。とうぜん、こちらも早く覚えて独立してやる、という一心でやってたけど。
 朝は先輩と会社のツケでモーニング、昼は先生のお供でゴチ、夜は忙しいので中華の出前を、ゴチ。なんてことが毎日で、お風呂には週に3回入れたらいいほうだった。だから、そんな安月給でも、休みは疲れて寝てるしで全然使わないから、少しづつだけどお金も溜まっていき、それで機材を少しづつ買いそろえた。ほかにも、印刷となると何も知らなかったので、こちらも覚えることがたくさんあった。隣の制作会社では、大きな部屋でたくさんの若い人たちが写真や文字をハサミで切って原稿に張り付けていた。慣れてくるとそこへ撮影商品をもらい受けに行かされる。もちろんどんなふうに撮るのかも聞いて来いと。
優しい女性、適当なおっさん、神経質な若造、いろんな人が居たが、50前後のチーフは厳しくておっかない人だった。何しに来たとばかりジロリと睨まれると足がすくんだもんです。
 だいたいデザイナーからこんな風にと、絵を書いて、比率や背景の指示が付く。どうやったらそんな形状に見えますのやろか?という絵もあるけど、それをその二次元の絵を、商品たる三次元の立体物でそう見えるように、また二次元のフィルム上へ再現なんですね、この仕事は。適当な人は雑誌とかのページを切って、これこれ、こんなんで頼むわ、とかもあった。
 チラシなので、4x5にローレックスでは時間がかかるし、135ではあつかいにくいのでブロニーでの撮影だったが、メインはハッセル。しかし私が最初に持たされたのは、マミヤC330!二眼レフというやつだった。これでモノクロの簡単な物撮りと複写が最初の仕事。パララックスがあるので気を付けないと画面が切れてしまう。照明はローウェルというタングステンライト(今見に行ったらまだ売ってた)だった。
 さてその複写。早い話が、メーカーからの支給ポジとかが無い場合、カタログの画像を複写して原稿にする、ということ。ホントはNGなんだろうけどまあ昔の話。これ両サイドから電球でサンドイッチにして、真上から撮るだけ、と思ったら大間違い。紙が薄くて裏の絵柄が透けて見えるのはどうするかというと、黒紙を下に引き込むことで、裏写りをなくす。金や銀の文字、線なんかある場合は、そのままだと変にテカったり、黒潰れするので、レンズの大きさの丸い穴の開いたボードをレンズに差し込んで反射させて撮影。白で受けすぎる場合はグレーで。事情でボコボコになってしまった原稿は、薄いガラス板の下に入れて、上から押さえつけ反射に気を付けて複写。もちろん、ガラス板の色被りを抜くためにフィルターを入れてた。
 出張撮影に初めて行かされたのはモノクロページの小物の撮影。最初は先輩と二人で行って、教えてもらいながらやったが、三回目には一人で行って来いと。モノクロなので、焼きで加減できるから大きく外さなければ露出の失敗はほぼない。あとは何処から撮るか、商品のどこを見せるべきか、テカリは出てないか、立体的に見えるライティングか、試行錯誤しながらだけど、一人、事務室の狭い空き部屋であーでもないこーでもないとやってた。帰って現像してベタをとって、納品の前に先輩に見てもらい、OKが出たらほっとした。
 今でも年賀状のやり取りだけだが、仲良くなっていろいろ教えてもらった方から、最近その会社が解散したと聞かされた。もっとも私の居たスタジオはもう20年以上前に、先生が「もう歳なんで子供の世話になるわ」といって閉めてしまってた。最後に挨拶に行った時、機材全部売り払っちゃったけど、バック紙とかはお前にやればよかったな、と言われたが、けっこう悲しかったな。そうした丁稚時代から、独立するまで10人ほどのカメラマンとの邂逅があったけど、いまだに続けているのはどうやら私だけになったようだ。


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