続・「経験的に」 ー 宗教探訪(1)

宗教について、経験的に話をしてみようという予告をしてしまった。

くり返しになるが、宗教体験を話すということではない。

宗教に関して、特別、本などで調べることなく、できるだけ、これまで得てきた知識によって語っていこうという試みである。

もちろん、かなり便宜的な設定だ。全く調べないで進めようとは思っていない。

くどくなるが、通常の理解から極端に離れることなく、言い換えると、一般常識のラインをできるだけ外れることなく、宗教について、考え始めようということである。

つまり、「考え始める」段階は「経験的に」ということにして、話が進んでいけば、「やや専門的な」話にも足を踏み入れていくことになるのだろうと思う。

こういう「まえおき」は短いに限る。

(一般常識について、少しだけ補足しておくと、「さほどの驚きもなく納得できる知識」ということにしておこう。知らない事実も、理解できれば一般常識の範囲である)

世界の宗教

世界にはいくつくらい宗教があるだろうか。

キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教・・・。

このあたりはすんなり出てくるだろう。もちろん、もっとある。

ゾロアスター教、ジャイナ教、シーク教、ブードゥー教・・・。

だんだん心許なくなっていくが、このあたりも宗教であることは、こうした宗教の個々の内容をほとんど知らないとしても疑問はない。

なんといっても「教」の文字がついている。

だが、なんとなく偏っている感じがある。

儒教、道教はどうか? 日本の神道はどうなのだ?

このあたりから、意見が分かれる可能性が出てくる。

儒教は「教」の字はついているが、宗教ではなくて、道徳ではないか?

神社にお参りに行くのは、習慣、習俗であって、宗教ではないのではないか?

中国の人の中には、道教を宗教と言われるのは心外と感じる人がどうやら一定数いるらしい。以前、苦情を言われた。これは日本人の神道に関する意識と似たところがあるのかもしれない。

宗教を感じさせるものをできるだけ避けようとするのは、「無宗教」を好んで標榜すると日本人だけではない。

戦前の日本政府は「神道は宗教ではない」と主張して、国家神道を特別扱いしたため、ロクなことにならなかった。今日、「無宗教」が好まれる原因のひとつだろう。

そうはいっても、ここまでに挙げたものはすべて宗教と考えられる。

しかし、「それは**経験的に**認められない」という人がいるかもしれない。早くも当初の前提が崩れてしまうが、「経験的」というのもこの程度が限界である。

もっとも、「儒教、道教、神道も宗教です」と言われて、それが大きく常識から外れているとも言えないので、まだ常識の範囲内ということにしておこう。

伝統宗教・新興宗教・セクト・カルト

さて、ここまで挙げたのは、いわゆる「伝統宗教」だ。世界を見渡せば、もっとたくさん宗教はある。どのくらい年月が経てば伝統宗教と見なされるようになるのかは、よくわからないが、いわゆる新興宗教はあげればキリがない。

仏教系、キリスト教系、神道系というように、伝統宗教から分かれ出て独立したものもあれば、さまざまな宗教理念を組み合わせて独自の宗教を作り上げたものもある。もちろん、教祖が出現して、新たな宗教教団が形成されることもあるが、日本の場合、それでもだいたい、上記の3系統に分類されるだろう。

既存の宗教を枠組みとして残したまま、一部を強調するなどして、独自色を強めた集団を「セクト」と呼んだりする。日本語では「分派」と訳されるだろうか。

日本で言えば、仏教系の創価学会などがその典型。その元になっている日蓮宗もセクトだといえば、セクトだが、どこから分かれたことになるのだろう。

キリスト教のプロテスタントも元々はセクトである。キリスト教についての言論はプロテスタント系の学者が多く担ってきた。自分たちのことを「セクト」とは呼びたくはないのはわかるが、言葉の定義上はそういうことになる。その後のプロテスタント諸派の分裂のくり返しについては言わずもがな。キリスト教の大原則は保ったまま、分裂している。

「セクト」という語は「カルト」と同じ意味で理解される傾向が強くなっているようだ。フランスでカルト教団についての規制を含む宗教に関する法律が「反セクト法」と通称されたことがそれに拍車をかけたのかもしれない。

日本でも安倍元首相暗殺以来、カルトという語が頻繁に用いられ、高額献金、「宗教2世」問題など、盛んに取り上げられている。

言葉の用法は時代とともに変わっていくので、その流れには逆らえないが、カルトという言葉の意味についても考えておきたい。

カルトという語は、元々あった大きな枠組みの中から、その一部だけを抜き出して強調した後、元になっている枠組みに含まれる他のことはほとんどすべて排除して、その抜き出したものだけを崇めていくというようなことを意味している。

それゆえ、宗教に限ったことではないが、ほぼ必然的に宗教的な臭いを漂わせることになる。

例えば、元々はキリスト教の教会員の集団であったものが、ある牧師を中心に、その牧師への個人崇拝を始めて独自の考えを展開し始めるというような現象が典型である。もちろん、すでにキリスト教の教義などは全く意味をなさない状態になっている場合である。ただの人気牧師という話は別。

カルトの例としてよく挙げられる「浅間山荘事件」は共産主義革命の「演習」で山籠りをしていた若者たちが共産主義革命とは無関係な「集団の規律」といったものに取り憑かれ、集団リンチを繰り返し、殺害にまで及んだという事件だ。

山本直樹の漫画『レッド』がこの事件の経過を再現している。こういうわかりやすい形で残されたことは大変喜ばしい。https://amzn.to/3xrEGtt

カルトという言葉は、比較的小さな集団が何かを中心にして、周辺の人には理解し難い活動をしているという状況に対して用いられる。

だから、「毎週日曜日に人々が集まって、中で歌を歌っている建物がある」という状況は、キリスト教という宗教が知られていれば、「理解し難い活動」ではないので、カルトにはならない。

しかし、例えば、そこから出てくる人は男女問わず、必ず派手な黄色いスカーフを首に巻いており、暑い夏の最中にもそれを外すことなく、外すと仲間から咎められるらしいという状況が周辺に知られ始めると、そのある種の奇行が周辺には理解できないことからカルト性が生じる。

もっとも、こうしたことは建物の中など、見えないところでひっそりと進行するので、周囲に知られるようになったときには、もう状況はかなり進んでいる。洗脳の典型的な進み方。

未知のものというのはなんとなく怪しいものだが、知識を得ることによって、その怪しさが解消できる場合とできない場合がある。

解消できないときは排除の対象になることもあるが、無知ゆえの不当な迫害も生じる。

昨今の統一教会の問題は、情報を得たことで、詐欺まがいの献金要求や事実上の児童虐待が広く知られるようになったため、解散命令までいくかどうかという話になった。

しかし、不当な迫害というものも宗教の周辺では起こりがちだ。

いかがわしいカルト教団の話は別としても、迫害されようとして宗教活動を始める人はそうそういない(迫害をバネにする炎上宣教というのはあるかもしれないが)。

なぜ、宗教の周辺にいかがわしさが感じられ、それを人は排除しようとするのか。

そのあたりも、ここでのテーマとなっていくはずなのだが、カルト周辺のわかりやすさの中からはその要因を辿ることは難しいように思う。

もう少し宗教をめぐる一般的なことから考えていくことにしよう。

(つづく)

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