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「無宗教」という言葉

ここでは宗教にまつわる話が多いことはお気づきのことと思う。

「無宗教」という言葉は日本語に独特な感覚であろう。

それは「無神論」とは違うが、その違いは今回の話題ではない。

無宗教という語は特定の宗教団体の信仰、教理とは無関係であるという意思表明に使われることが多い。

しかし、無宗教という語が一般の会話の中で使われるのは、話題が「宗教的なもの」であるという意識があるときに限られている。

つまり、宗教の存在が前提になっている。

なのに「無宗教」。

言葉の揚げ足とりをしようというのではない。

人の日々の暮らしの中でのエピソードが語られるのを読むことが多くなっている昨今だが、他人の悪意のない行為が気になり、その不合理が切々と綴られた文章の最後にこうあった。

「どうか(彼らに)神罰を与えたまえ。無宗教的に」

これほど「無宗教」という語を適切に用いた例はないのではないか。

その一方で、「宗教」という語はさらに、その意味をぼんやりとしたものにさせられている。

呪いとか神罰などというものはまさに宗教的なものでしかない。

しかし、「無宗教的に」と言われたら、この表現は日本語としてはおかしい気はしない。

「あの人には思いやりがなさすぎます」

この表現は外国人、特に西洋人を不思議な思いにさせるという話は比較的知られているのではなかろうか。

「ない」という状態に程度があるのである。

「あるか、ないか」ではなく、「なさすぎる」、非常に「ない」。

「宗教」「無宗教」の意味についてはずっと気になっているが、今回接した話はいいきっかけになった。

もっとも、「無宗教」という語の曖昧さは日本語の生成構造のようなものと関係しているとしても、「無宗教」という語が「無宗教」という現象をうまく写し取っている言葉とは言えないだろうとは思う。

いや、むしろ、うまく写し取っているというべきなのだろうか。

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