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練習(≒行動)の量と方向性を考える

何かを鍛える、もしくは積み重ねるといった時に、量と質(方向性も含む)について考えをまとめていくnote

あらゆる練習が何を生むかというと、『理想的であり完璧な状態』という訳ではない。練習の積み重ねが生むものは、方向性が違う全くの別なモノか、より一層改善された何かだ。

By John Gammy

まあ出だしでまとめた感がありますが、よろしくお願いします✎

 
 
 
 

無計画に量を重ねるべきではない

そもそも様々な情報が溢れた比較的変化が激しい現代で、無計画に行動をするというのは、超長期というかなりの長い目で見ればプラスなのかもしれませんが、短期〜5年・10年の期間であればマイナス面の方が大きいです。


がむしゃらに量をこなす時期も必要ですが、行動量を増やすのであれば、ある程度の道筋を決めた上で行動する必要があります
(熱量だけでは間違いなく長続きしませんし、新たに何かをするには余白が必要ですのでね)


今は沢山の先駆者の方々のおかげで、より行動の幅が拡がり、取捨選択のカスタマイズがしやすくなりました。


人生は当たり前ですが有限です。特に現代は変化が目まぐるしいので、力も付けつつ適応できなければ負けます

『人生は勝ち負けではない!』『充実度だ!いかに満たされていると感じるかだ!』と考える方もいるかもしれませんが、負ければ自分のしたい事も出来なかったり、人生選択の幅が減ったりします。
(ここでお伝えしたいのは勝ち続ける必須性ではなく、引き分けだとしても生き残る必要性ですね)

 
 

図のように

修整を図る意義

Bのように手法は同じでも、都度で方向性を修整出来るのであれば別ですが、Aのような修整できない期間が長いとそれだけ目的地から遠ざかります。



修整回数の頻度

また進む手法や手段等が同じでも、CとDのように評価を挟む修整回数が変わる事で、大きくブレ過ぎる事なく、より変化に適応できたり行動の理想範囲内で進めるかもしれないですし、



1つを極めるか様々な方法で目指すか

Eのように同じ手段を取ったとしても、評価を重ねる毎に練度を増していく事だったり、
Fのように評価を重ねる毎に、全く違う手段で同じ目的地を目指す事もありかと思います。

 
 

もう一度記しますが、変化が著しい現代です。

到達点が一定とは限らない

自身が違う方向に向かっている間に、Gのように何かが変わるかもしれません。

それこそ目的地に向かう手段が変わるかもしれないし、目的地自体が変化しているかもわかりません。


こまめな調整が出来なければ、適応しようにも想像以上の多大な労力が必要になります(下手したら適応できない位、厳しい状況になっているかも…)。

 
 
 

だからこそ量を重ねるのであれば、いきなり自己流で始めるのではなく、参考にすべき指標を見つけてから始めるべきですし、

もし、どうしてもカスタマイズしたいのであれば、内容の自分流アレンジではなく、様々な指標を集め、『そのままの内容毎の流れ』を組み合わせるような手の加え方をして行うべきです。(物事には段階がありますけどね)

 

今の時代、意識して探そうと労力をかければ二次情報でなく一次情報源まで探し出すという事は難しい事ではありません。

※一次情報と二次情報の違い

一次情報
…オリジナルな情報。つまり本人が直接的に体験から得た情報・考察・もしくは本人が行った調査や実験の結果など。
 
二次情報
…その著者の直接的体験による情報ではなく、一次情報を持つ他者を通して得られた情報。一次情報を解釈した上で記されたもの。あるいはどこかに掲載・保管されていた情報

ですが、二次情報が簡単に得られるようになったが故に、情報が過剰供給され、信頼できる情報の選別が難しくなってきているのも事実。ファクトチェックの必要性=リテラシーの強化は求められています

 

その辺りも踏まえると雑な情報群に惑わされやすくはなっているものの、目的地への方向性と手段は参考に出来る何かを見つけ、明確にして臨む事で変化に適応しつつ進めますよね。

 
 
 
 
 

より一層改善されたモノを目指すには

無計画に量をこなす事と、方向性を間違うと多大な労力がかかる事をご理解頂けたかと思いますので、

次は突き進むにあたり、より改善された成果を作り上げていくには?という視点で綴ってみたいと思います。


まあ、言葉にすると当たり前なのですが、得た経験(練習)に対してどのように捉えていくかという事です。

僕は常々経験の差というのは、【経験を通してどのように感じ、どのように考え、どのように表現していくのか】が差だと捉えています。

何故か?

多種多様性のある経験をしてきたとしても、ただ漠然とこなし、何も考えずに得ている経験だと、それは数が増しただけの単調な経験となり、厚みは増さず、実は大して経験していない事と等しいのではと…


その一方で、同じような単調だと思える経験が続いたとしても、その都度で捉え方を変えたり、至るまでの方法を変えたりと工夫次第で多彩多様さを増す事もできるのかなと。


だからこそ経験の総量と経験の多彩多様さは同じではなく比例もしません

 
 
 
 

まとめ

冒頭でも記していた

あらゆる練習が何を生むかというと、『理想的であり完璧な状態』という訳ではない。練習の積み重ねが生むものは、方向性が違う全くの別なモノか、より一層改善された何かだ。

By Kazuhiro J.Nakagami

これ↑が起こりうるので、経験・体験を上手く消化し自身の糧に出来るかどうかは、【経験(練習)を通してどのように感じ、どのように考え、どのように表現していくのか】で決まるかと。

つまり受け入れるインプットの質や量を重視するのではなく、『インプットの仕方を重視』するって事ですね。

そして受け取ったモノをどのように表現していくかのアウトプットも大事です。言語・図示・体現など視覚化出来るものに変換する必要はあります

※インプットアウトプットの記事はこちらに↓

Input ➠ Feel ➠ Think ➠ Recognize ➠ Output の流れですね


ここまでお読み頂きありがとうございました。今回のnoteが何かのきっかけになれば嬉しく思います。

別noteもよろしくお願いします\(ϋ)/

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