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2024年6月30日(日)十日町教会 日曜礼拝メッセージ

聖書

旧約聖書 ホセア書14章2~8節

新約聖書 使徒言行録9章36~43節 

説教:

信じるのが難しい事柄

 聖書にはどうしても信じ難い、受け入れ難いと思える出来事が記されています。その一つが死者の復活です。自覚的に洗礼を受けキリスト教信仰を生きている人の中でもこれをどのように受け止めたら良いのか悩んでいる人もおられるのではないでしょうか。何を隠そう私もその1人です。これは言葉通りに信じることが大切なのでしょうか。それとも奇跡物語というのは口伝で語られていく中で大袈裟に脚色されていく傾向が認められますから、死にかけていた人が息を吹き返した出来事が死者の復活という奇跡物語にまで昇華したのだと冷静に受け止めても良いのでしょうか。

復活、生き返る

 「生き返る。息を吹き返す。復活する。」これらの言葉は実際に死者が復活した時に用いるよりも常用表現として死にかかっている人や元気のない人が元気になること、怪我や病気、手術を経たスポーツ選手が復帰する時に用いられる表現です。そしてそれは聖書においても同じです。聖書においても死者の復活以外に生き返るという表現が用いられます。それは本来のありように立ち帰ること、回復を意味しています。

聖書に見られる復活という表現

 旧約聖書のホセア書は非常に考えさせられる意味深い書物です。ホセア書1章を読みますと預言者ホセアは神にこう言われています。

「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。(1章2節後半~3節前半)。

 ホセアはゴメルのことを愛していたから結婚したのではなく神さまに命令されて彼女と結婚をしました。彼女は淫行の女で複数の子どもがいたと記述されています。そのような人となぜ結婚しなければいけないのかというと、この国すなわちイスラエルが淫行にまみれ主に背いているということを伝えるためです。ホセアは預言者です。預言という字は「予め言う」ではなく「言葉を預かる」と書きます。これは未来を予測する占いではなくて神の言葉を預かり、それを民に告げるという役割です。預言者は神から預かった言葉を口で人々に語ることもありますが、それだけでなく行動で示して伝えるということもします。これを行動預言と言います。言葉だけでなく象徴的な行動によって神のメッセージを伝える方法です。これも預言者は神に命じられて行います。

行動預言の数々

 例えば預言者エレミヤはユダ王国がバビロニアに滅ぼされ、人々がバビロンに捕囚されるという神の言葉を伝えるために自らの首にくびき(2頭の牛をつなげて農地を耕す時に用いる道具)をはめて人々の前に出るという行動預言を行なっています(エレミヤ書27章~28章)。また預言者エゼキエルはユダの人々が捕囚の地で悪臭のするパンを食べなければいけなくなるという神の言葉を伝えるために、神から人糞でパンを焼いて食べるよう命じられます。「流石にそれは無理です」とエゼキエルが答えると「それでは人糞の代わりに牛糞でパンを焼いて食べろ」とやはりとてつもなく厳しく辛い行動を命じられ、その行動によって人々に神の言葉を伝えるのです(エゼキエル書)。

 行動預言とは強く人々の印象に残るように行われる一種のパフォーマンスですが、預言者エゼキエルが命じられた行動預言を読むと「いやぁ~辛いな~」というのが正直な感想ですし、預言者ホセアが命じられていることも同様です。彼は人々が主なる神ではなく他の神々を崇めているということを告発するため、そしてそれでもなお神がそのような人々を愛していることを告げるために淫行の女ゴメルと結婚をします。ゴメルは町では結婚はしていないけど複数の子どもがいる女性として有名人だったのでしょう。容姿は美しかったかもしれませんが、まずもって誰も結婚しようとは思わない。ホセアはそういう女性と結婚するのです。ホセアにとってメリットはありません。でも神が命じたことだから彼はゴメルと結婚して彼女を一所懸命に愛するのです。ホセア書3章1節においても主なる神が再びホセアに命じています。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」1章の言葉と微妙に表現が変わったのが分かるでしょうか。ただの「姦淫の女」から「夫に愛されていながら姦淫する女」に変わっています。すなわちホセアは神さまの命令に従ってゴメルと結婚し健気に彼女を愛するんですが、ゴメルの姦淫は変わらず不倫しているということが暗示されています。

 ホセアはとても辛い思いをしています。「妻を愛しているのに妻が別の男性と肉体関係を持ってしまう。生まれてくる子どもももしかしたら自分の子ではないかもしれない。」そういう辛い思いをしながらもゴメルとの結婚を続けているホセアを通して神は人々に告げるのです。「あなたたちは主なる神である私に対してホセアのような苦しみを与えている。私があなたたちを奴隷の地エジプトから導き出した神なのに、あなたたちは私でなく別の神々を崇めている。しかしどれだけ不義を行い、姦淫をしようとも私はあなたたちを愛している。あなたたちに対する私の愛が変わることはない。早くそのことに気づいて私のもとに立ち帰るのだ。」

私のもとに立ち返れ

 神さまは慈しみに富んでいる方であり神さまを悲しませる人間を罰することは望んでいません。何とか人間に過ちに気づいてもらい、自分のもとに立ち帰ることを望んでおられます。そして人間が本来の自分、神に愛されてこの世界に生を受けたことに気づいて立ち帰っていくことを聖書は生き返ると表現するのです。旧約聖書だけでなく新約聖書においてある人が「生き返った」と表現される有名なお話があります。ルカによる福音書15章11節以下にあるイエスの譬え話、「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる話です。この譬えには父と2人の息子が登場します。弟がある日父親の財産の生前贈与を求め、これに父が応じると弟は全部を金に変えて遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たします。するとその地方にひどい飢饉が起きて彼は食べるのも困る状態となります。窮地に陥り彼はこれからどうやって生きるべきかを切実に考える中で我に返り、父のもとに帰る決心をします。息子は父に会ったらこれまでのことを謝罪し、雇い人の一人にしてほしいとお願いすることを決めて故郷に帰ります。どうなったでしょう。故郷に帰ってきた息子を見つけた父親は走り寄って抱きしめ接吻します。そして息子が帰ってきたことを喜び宴会を催しました。

死んでいたのに生き返った

 面白くないのは兄です。「また親父の野郎、弟ばかり贔屓して。」そんな思いに満たされて宴会にも出席せず、父親がなだめにいくとこんな不満を漏らします。「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」すると父親はこう答えるのです。この答えがグッときます。お聞きください。「子よ、お前はいつもわたしの一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」そういうことを言う父親なのです。この父親は神さまを指していると考えられています。神さまは自分のもとから離れた人間が帰って来るのを首を長くして待っているのです。神さまは自分のことを忘れ、この世界で魅力的に映る様々なものに惹かれ奔放に生きる私たちが立ち帰ることを望んでおり、もしもいなくなっていたのに見つかったら、死んでいたのに生き返ったと大喜びして受け入れてくださいます。私たちだったら散々放蕩の限りを尽くした家族が戻ってきたら嫌味の一つくらい言いたくなりますが、神さまは深く大きな愛で私たちを包み込んでくださいます。

私たちがなすべき伝道とは

 誰にでもこれまで歩んできた道を逸れることがあります。これまでの人間関係から距離を置く、熱心に通っていた教会から離れる。ただ離れるだけなら良いですが道を逸れた先で放蕩の限りを尽くし、ギャンブル、酒、薬などに浸かり犯罪に手を染めていたら大変です。このままではいけないと我に帰った時、もう自分には元いたところに帰る資格はない。こんな自分ではふさわしくない。そんな風に考えてしまいます。しかし神は待っておられます。いなくなったのに見つかった。死んでいたのに生き返ったと喜び抱きしめてくださるのが聖書の神です。イエスさまも福音書の中で「私は罪人を招くために来た。医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である。」

 私なんて生きる価値のない人間だ。誰にも好かれていないしどこにも行く場所がない。そう思っている人を歓迎して受け入れていくことが神の思いを伝えることなのではないでしょうか。

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