元は一つだったという幻想

2022年3月13日に四街道教会で語った聖書メッセージを公開します。

聖書は旧約聖書 創世記 11章1〜9節です。

下記の日本聖書協会の「聖書本文検索」から聖書を読むことができます。

https://www.bible.or.jp/read/vers_search/titlechapter.html

以下よりメッセージ本文です。

 「どうして世界中にはたくさんのことばがあるのですか。」これはある新聞の身近な疑問に答えるコーナーに寄せられた子どもからの質問です。古今東西問わず子どもたちが一度は疑問に思うことではないでしょうか。今日の聖書はバベルの塔のお話でした。聖書を知らない人でも教養として知っている人が多くいる、何千年も前から語り継がれている有名なお話です。この話の真偽の程は今回は横に置いておくとして、この話は「どうして世界中にはたくさんのことばがあるのだろう」と思った人たちの疑問に答えています。

 バベルの塔のお話が収められた創世記という書物が最終的に一つの巻物として完成したのは紀元前6世紀に起こったバビロン捕囚の後だと言われています。バビロン捕囚とはユダ王国がバビロニアに滅ぼされ、人々が征服者の町バビロンに強制連行された出来事です。ユダの捕囚民は何十年も故郷を離れて暮らしました。非常に辛く苦しい出来事です。私たちは先週の3月11日に東日本大震災から11年を覚えて祈りを捧げました。原発事故や津波の影響で愛する故郷に住めなくなった人たちの抱えている悲しみは11年経ったからといって癒えるものではなく、年々積み重なっています。故郷からバビロンへ強制連行されたユダの捕囚民たちも年々故郷への哀愁が増していったことでしょう。


 ユダの人々が連行されたのはバビロンという町ですが、より広い地域としてはチグリス・ユーフラテス川流域メソポタミア地方に連れて行かれました。この地方には古くからジッグラトと呼ばれる日干しレンガを数階層に組み上げて建てられた巨大な塔がありました。みなさんご存知でしょうか、紀元前2100年頃に建てられたとされるウルのジッグラトが有名で、イランに行けばほぼ完全な形を見ることができます。


 ユダ王国を滅ぼしたバビロニアは周りの地域を征服してどんどん領土を拡大していきます。ユダの人々だけがバビロンに捕囚されたのではなく他の国の人たちもバビロンに捕囚されたことでしょう。彼らは言語も文化も宗教も違う民族でしたがバビロンという一つの町に集められ、そこでジッグラトという天にも届きそうな高くて大きな塔を目にしたのです。ユダ王国を滅ぼしユダの人々を捕囚したバビロニアの王ネブカドネザル2世の時代には「エ・テメン・アン・キ(天と地の基礎となる建物)」という名称のジッグラトがバビロンにあるマルドゥク神殿の中心部に完成していました。おや?バベルの塔のお話とバビロンに捕囚された人々の状況に類似点がありますね。


 何十年という長い期間バビロンで暮らさざるを得なかった人たちが徐々に自分たちの言語や文化、宗教、習俗を侵食され、バビロンのそれらに同化していったことが想像できます。しかしバビロニアにも他の国々と同じように衰退の時が来ます。ペルシア帝国が興るとキュロス2世によってバビロニアは滅ぼされるのです。ユダの人々は約50年ぶりに故郷エルサレムへと帰還します。そして50年という歳月の中でバビロンに侵食されていた言語、文化、宗教、習俗を取り戻したのです。バビロンに国を滅ぼされ、捕囚された他の民族も同じでしょう。バビロンと同化した部分もあったと思いますが、これだけは譲れないという民族の核、アイデンティティーを取り戻したと思います。


 バベルの塔の話は一つの言語で同じことを話していた人たちが神によってバラバラにされてしまうというお話です。町には一つの言語で同じことを言う人しかいなかったのに神さまのせいでバラバラにされ、意思疎通ができなくなってしまったと読むこともできますが、バビロニアやユダの歴史を知ると逆の読み方もできます。すなわち大国によって多くの民族が一つの町に強制連行され一つの言語で同じことを言うように強要されてきたが、神はその状態を良しと思わず国を滅ぼし、人々を解放してくださったのだという読み方です。


 今日は教会の聖書日課を外れてバベルの塔の箇所を選び、主題説教の形をとっています。その根底にあるのは世界情勢、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻があります。


 つい先日私たちはロシア軍が小児病院を空爆し子どもを含む3人の死者を出したという報道を目にして大きく心を痛めました。どんな大義名分を持とうが戦争は人を不幸にします。最も大きな被害を受けるのは子どもや女性、病人、高齢者など弱い立場におかれた人です。ロシアは2014年のクリミヤ侵攻の時と同様ウクライナに住むロシア系の人々の保護を名目に外交努力によってそれを実現するのではなく軍事侵攻を行いウクライナを占拠、征服しようとしています。その姿は他の地域を暴力の論理によって征服することで領土を拡大していったバビロニア、そしてバベルの町とも重なります。バベルの人々は「さあ、天まで届く塔のある街を建て、有名になろう」と一様に語りました。神さまはこの状況に対してこう語るのです。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。」もはや人間には止められなくなっている。だから私(神)がバラバラにしてやろう。


 ここで「言葉」と訳されている語の直訳は「唇」です。みんなが一つの唇になっているって言うんです。どういうことでしょう。「人の口に戸は立てられない」ってことわざがありますけど、本来人間の口というものは良くも悪くも誰かに支配されるものではなく自由なものです。でもバベルの町では人々の唇、言葉、言うことが一つだったって言うんです。私にはこの状態が皆が意思疎通できているユートピアではなく洗脳か言論統制された状態に感じます。いまのロシアがまさにそんな状況です。プーチンに反対したら何をされるか分からないという恐怖から多くの人たちがプーチンに異を唱えることができず賛同しています。あるいは異を唱えた瞬間に捕まり、暴力を受けてその言葉、唇が封じられています。


 今の世界情勢を踏まえるとバベルの塔の話は暴力の論理、権力者の論理が支配する状況の町に神が直接介入して人々をバラバラにして町の建設を止めるという話に聞こえてきます。では今この世界情勢の中で聖書を神の言葉と信じる私たちはどんな道を選んで進んでいくべきなのでしょうか。⑴権力者と同じ唇で何もせずに神が再び直接この歴史に介入するという奇跡をただ待つ道。⑵暴力の論理に暴力の論理で立ち向かいNATOという軍事力で、あるいは真綿で首を絞めるような経済制裁でロシアを止める道。⑶暴力の論理に異を唱え続け、それとは異なる論理による平和を希求する道。


 世界の人々の考えはバラバラです。一緒には決してなりません。キリスト教の中でも先日WCCとロシア正教総主教との往復書簡を読みましたが、そこには西側世界、日本を含む西側のキリスト教とロシア正教会との深い深い断絶があることを感じました。私たちは他者を変えることはできません。神も私たちの言葉、考えがバラバラであることをある意味で良しとされていることを弁えつつ、では私たちは、私はどのような唇で言葉を発し、また行動すべきかということを一人一人、神の言葉と信じる聖書でもって祈りつつ真剣に考える必要があります。


 ⑴は戦時下の日本基督教団と重なる生き方です。私たちの教会の過去には御真影を飾り、それに最敬礼をしながら一方で唯一の神を礼拝していました。⑵は歴史的に教会が選んできた道です。聖なる、あるいは正しい戦争というメッセージが教会から語られ暴力の論理が肯定されました。でも現実はウクライナの小児病院への空爆のように、子どもや女性たちなど弱い立場の人たちが最も大きな被害を受けます。

 教会が⑶の道、暴力の論理を否定して別の論理で持って平和を希求していく道を選べたことは少ないかもしれません。でもレントのこの季節、私が⑶の道について思い巡らしているときに思ったのが主イエスが逮捕され、十字架の道を進む時の言葉と行動です。マルコ福音書を除く3つの福音書はこう記しています。弟子のペトロが、役人に取り囲まれたイエスが逮捕されないように暴力で対抗しようと剣を抜いた時に語られた言葉です。「剣を鞘に納めなさい」「もうそれでやめなさい」。

 「剣を鞘に納めなさい」「もうそれでやめなさい」。このイエスの言葉が今の状況を生きる私の心に神の言葉としてズドンと届きました。皆さんはどうでしょうか。

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