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ペンテコステ礼拝


2024年5月19日(日)

聖書箇所 エゼキエル書37章1~14節、使徒言行録2章1~11節

牧会祈祷:

 聖霊なる神さま、あなたが私たちにいのちの息を吹き込むことによって私たちは生きることができます。枯れた骨が復活いたします。希望を持って立ち上がることができます。ペンテコステを記念する今日、どうか私たちにあなたから来る一つの霊をお与えください。
 主なる神さま、1月1日に発生した能登半島地震から4ヶ月以上が経過しました。遅々として復興作業が進まず、未だ多くの被災者が電気や水道を自由に使えない生活を余儀なくされています。教団の輪島教会は地震により礼拝堂が全壊し、牧師館も倒壊の危険があるということで信徒も牧師も避難所での生活を余儀なくされました。礼拝堂が使用できないため礼拝に集まることができない、賛美歌を歌うことができない生活が続いておりました。しかし神さま、5月13日に輪島教会の仮礼拝堂が設置され、電気水道工事も完了したとの知らせを受けました。本日から輪島教会の皆さんはこの礼拝堂に集い、ペンテコステの礼拝をささげています。神さま、被災して本当に大変な状況にある輪島教会の一人一人をお捧げくださり、今日まで励まし導いてくださったことを感謝いたします。これから輪島教会は新たな歩みを開始します。聖霊を受けて勇気づけられ、教会が誕生したペンテコステの出来事を覚えるこの日、輪島教会の皆さんの上にも聖霊が豊かに降り、これからの歩みが力強く、しなやかになされますように。
 こどもたちを愛するイエス・キリストの主なる神さま、十日町幼児園、山本愛泉保育園を覚えて祈ります。それぞれの園で親子遠足があり、良い交流の時間を持つことができました。こどもたち、そして保護者のためにキリスト教保育を行う各園があなたに喜ばれる働きができますよう神の霊をお与えください。保育に携わる保育士の働きを強めてください。こどもたちの体と健康を作る給食室で働く職員の働きをあなたが労い、豊かなものとして導いてください。
 教会に連なる一人一人のために祈ります。あなたが今日、私たちを聖霊で満たし、自由でしなやかな心を私たちにお与えください。様々な事情でここに集うことの出来ない友がおります。どうかそれぞれの場所にあなたが伴ってくださり、必要な良いすべてのものを備えてくださいますように。言い尽くし得ない祈りをここにいる一人一人の祈りと合わせ、イエス・キリストによって祈ります。アーメン

説教音源は以下のGoogleドライブからダウンロードして聞くことができます

https://drive.google.com/file/d/1onDnrapIkY2hA5GC8ZgaS0trhAZvIinv/view?usp=drive_link

説教:

今日はペンテコステ(聖霊降臨日)、教会の誕生を祝う祭日です

 ペンテコステおめでとうございます。復活のイエスが天に昇り、地上に残された弟子たちの上に神の霊である聖霊が降って教会が誕生したことをお祝いする祭日です。旧約聖書と新約聖書に記された神の言葉を聞きました。旧約聖書エゼキエル書では枯れた骨の復活という何とも不思議な出来事が記されていますが、これが何を意味するかというとバビロン捕囚にあった人々の解放とエルサレムという街の復興です。イスラエルという民族の歴史を振り返るとパレスチナ地域にサウル、ダビデ、ソロモン王の時代に王国が誕生しました。その後王国は南北に分裂し、北イスラエルは紀元前722年アッシリアによって滅ぼされ、南ユダは紀元前587年にバビロニアによって滅ぼされます。この時南ユダの祭司や貴族、王族など1部の人々がバビロニアの都バビロンに強制移住させられることとなりました。これをバビロン捕囚と呼びます。この捕囚は実に50年もの間続きました。エゼキエルは捕囚の地で活動した預言者です。彼は主の言葉として枯れた骨の復活について語り、捕囚されたバビロンの地で生気もなく死人のように暮らしているイスラエルの人々に捕囚が終わること、エルサレムに帰還し神殿を再建することができるという希望を告げます。

甚だしく枯れた骨が生き返る

 エゼキエル書37章2節後半を読みますのでお聞きください。「谷の上に非常に多くの骨があり、それらは甚だしく枯れていた。」「甚だしい」とは程度が普通の状態を超えていることです。神がエゼキエルに質問した「これらの骨が生き返ることができるか」とは長きにわたる捕囚生活によって生気を失った人々は復活できるかという問いです。エゼキエルはこれに「主なる神よ、あなたのみがご存知です」と答えます。エゼキエルは人間には到底できないと思えることも神ならできるし、私たちの主である神は希望を失っているイスラエルの民を生き返らせてくれることを信じているのです。彼はイスラエルの主である神を信頼しています。するとエゼキエルに対して主なる神は甚だしく枯れていた骨が復活することを告げ、この預言の通りにイスラエルの民は捕囚から解放されてエルサレムに帰還し街を、神殿を復興することができたのです。

復興そして復活

 ここで語られている枯れた骨の復活とは要するに復興のことです。そして今日私たちが心に留めたい点は、復興そして復活とは以前の姿を取り戻すことではない、ということです。キリスト教において信仰の要は復活を信じること、復活信仰だと言われます。日本基督教団も近年これを強調しています。でもそれがどういうことなのかはっきりわかる人は多くないように思いますし、私自身も同じである。復活を信じるとはどういうことなのでしょうか。今日は復活が持っている一側面にエゼキエル書を通して心を向けたいと思います。

世間でいう復活

 「復活」という言葉自体は私たちはよく耳にします。例えばスポーツの世界でよく使われますね。近年で言うと水泳の池江璃花子選手がその代表でしょう。世界レベルの水泳選手ですが19歳であった2019年2月に白血病であることを公表し、競技を離れて10ヶ月の入院生活を送りました。治療を終え競技に戻り、2021年4月の日本選手権に出場、オリンピックの選考基準を突破し代表入りを決め、復活を果たしました。しかし当時の新聞記事でご本人が、闘病生活を送る以前の姿、日本新記録を連発していたかつての自分とはまるで別人のようだと語られていますし、練習を再開しても当然のように仲間のペースについていくこともできなかったと言います。当然でしょう。池江選手の復活は日本新記録を連発していたあの頃の姿を取り戻すことではありませんでした。しかし彼女は以前とは違う形で復活したのです。

輪島教会の復活

 日本基督教団においても最近うれしい復活の知らせが届きました。それは輪島教会の仮礼拝堂設置の知らせです。1月1日に発生した能登半島地震によって能登半島にある輪島教会は最も大きな被害を受け、礼拝堂が全壊し、牧師館も隣接する家屋が倒壊して寄りかかっているために住めない状態となり信徒も牧師も避難所での生活を余儀なくされました。被災後は避難所で祈りの時を持たれていたそうですが、ついに5月13日、先週の月曜日にプレハブの仮礼拝堂が設置され、電気水道工事が完了して今日からこの礼拝堂で皆さんが礼拝を捧げ、賛美を歌い、祈り、聖餐の恵みに与ることができるとのことでした。いま輪島教会で捧げられている礼拝にはどれだけの喜びに溢れていることかと想像します。聖霊が降り、各々の言葉で神さまを賛美し、祈りを捧げていることでしょう。でも輪島教会の復活という嬉しい知らせも、元通りになるという意味での復活ではありません。あくまで仮の礼拝堂ですし、数名しか信徒がいない地方の教会が以前のような礼拝堂を再建できるか分かりません。でも私はきっと今日数ヶ月ぶりに礼拝を再開した輪島教会の皆さんの上に聖霊が降り、これまでの伝統に囚われない自由で柔軟な発想でこれからの輪島教会を再スタートさせてくださるよう神さまが導いてくださることを信じています。

復活は以前の姿を取り戻すことではない


 
 復興や復活が以前の姿を取り戻すことでないということはイスラエルの民の歴史からも分かります。捕囚前のイスラエル宗教は神殿を中心とした祭儀宗教でしたが、捕囚の時代に律法が整えられてエルサレム帰還後は神殿祭儀プラス律法の宗教に変化しました。旧約聖書のネヘミヤ記という書物には捕囚を終えて帰還した民が町を復興する様子が描かれていますが、象徴的なのが城壁が完成すると書記官エズラがモーセの律法の朗読をするのです(8章以下)。これ以前の姿の復活なら動物を焼き尽くす献げ物として捧げて終わりなはずですから、明らかにイスラエルの宗教の形が以前とは変わって復活している証拠です。

復活のイエスが分からないマグダラのマリア

 思えば復活したイエスの姿も以前の姿ではありませんでした。今年の復活節は教団の聖書日課ではヨハネによる福音書が朗読されました。イエスの復活に際して私が印象的だった場面はマグダラのマリアが最初に復活のイエスに出会うものの、園丁だと勘違いするところです。この箇所を読んでそんなことありうるかと腑に落ちていませんでしたが、今回の礼拝準備にあたってエゼキエル書をじっくり読むことで復活とは以前の姿を取り戻すことではないことに気づかされ、腑に落ちた次第です。復活のイエスは以前の姿ではないのです。だからマリアは気づきません。復活とは以前の姿を取り戻すことではありません。

ペンテコステを祝う意味

 今日はペンテコステをお祝いする礼拝です。ペンテコステは教会の誕生を祝う祭日です。暦としては復活節から連続しています。ペンテコステとはイエスの復活を祝う人々がこれまでの活動から教会活動という別の方向に舵きりをしたことを記念する日です。彼/彼女らはイエスが生きていた頃はイエスに従いパレスチナの方々を旅する宣教集団でしたが、イエスの死後、復活の主イエスと出会い、聖霊降臨の出来事を経てそれぞれの家庭で集会を持つ集団へと変わっていきます。そうやって師であるイエスを失い意気消沈していた共同体は自由で柔軟な心を与える聖霊に満たされて復活したのです。

日本の教会の現状と復活の希望

 日本の教会の現状は現在少子高齢化で減少の一途を辿っています。私は日本のキリスト教研究を専門にしていて先日ある方から戦後のキリスト教ブームの研究発表を伺いました。戦後数年経った1948年~1951年の3年の数字を見ると受洗者は毎年1万人を超え、CSには10万人を超える生徒がいたというのです。ちなみに2023年の教団年鑑では受洗者は1000人を切り、教会学校の数も激減しています。もちろん教会は数の多い少ないだけで測るものでは決してありませんが、戦後にある程度人がいる中で組織として作られた教会の姿形を今いるメンバーで維持していくのはどう考えても無理です。さらに私たちは近年コロナ下を経験してますます教会から人がいなくなりました。皆さんは果たしていまどんな思いを持っておられるでしょう。自分が死ぬまで何とか教会があって、葬儀をしてもらえればオーケーでしょうか。でもそれが福音を宣べ伝えよと語られたイエスに従うキリストの体なる教会として神さまに喜ばれる姿でしょうか。私たち教会はいまや甚だしく枯れた骨なのかもしれません。渇いているし呻いています。このまま教会は閉じていく運命なのかと落胆し望みを失っています。

私たちに今日告げられた神の言葉

 主なる神は今日、エゼキエルを通して枯れた骨となっている私たちに命を吹き込む言葉を届けています。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる。』それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。<中略>また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。」(37章11~14節)

神は、私たちを復活される。それは以前の姿に戻ることではなく新しくなって生き返ること

 いまの教会は枯れた骨かもしれません。また十日町市の現状と未来を思うとき、保育園の働きも楽観視できるものではありません。どんどん人口が減少して消滅可能都市なんて言われていますし、出生数は200を切りました。10年前の出生数は400でしたから半減しています。このまま進んでいったらどうなるのだろうかと不安を抱くのも当然です。枯れかけた骨の気分です。しかし神は私たちに霊を吹き込んで命を与え、これまでとは違う姿形で復活させようとしています。元通りに復活するのなら不安はないですが、復活した姿は以前とは別物ですから不安を感じる人もいるでしょう。でも復活が神の力によって起こる以上、それは必ず素晴らしいものです。あとは私たちがそれを受け入れられるかどうかにかかっています。聖書にはイエスの復活を受け入れなかったたくさんの人々が登場しますが、私たちは復活を受け入れない人間の集まりではなく復活を信じる共同体です。私たちが信じる復活とはイエスの復活であり、私たちのよみがえりです。自由で柔軟な心を与える聖霊を受けて、枯れた骨が復活するという神の言葉を信頼する歩みを開始しましょう。これからの教会、保育園がどんな姿で復活するのか、新しい姿になってよみがえるのか考えるだけで私はワクワクしています。枯れた骨を復活させてくださる神を信頼し、主イエスの復活そして私たちが生き返ることを信じて希望を持って今日から始まる聖霊降臨節を過ごしましょう。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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