『戦争論』第二篇第三章「戦争術か戦争学か」

 第二章では戦争の理論化についての歴史が考察された。第三章では戦争の理論化は「術」と「学」のいずれの領域において可能なのかということが検討されている。「術」をものを作り出す能力を目的とするもの、「学」を純粋な知識を目的とするものとする。

 クラウゼヴィッツは当初、戦争は「術」の領域にあると考える。いかなる知識も術と関係しないものはない。思惟はすべて術であり、論理学者は認識と判断の間に一線を画すが、分離することは困難である。

 しかし、クラウゼヴィッツは次のように主張する。第一に、戦争は本来の意味における術でも学でもない、第二に、これらの概念の出発点が誤っていたため、戦争はみだりに諸他の術や学と同列に置かれて、不正確な類推が行われた。(この第二の主張は「作戦線」や「策源」などを指しているのか)

 これらの資料を更に発展させたのが次の文章である。

 そこで我々はこう言いたい、戦争は術や学の領域に属するのではなくて、社会生活の領域に属するものである、と。戦争は、国家間の重大な利害関係の衝突であり、この衝突は流血によって解決されねばならない、そして戦争が諸他の利害関係と趣を異にする所以は、まさにここにある。ところで戦争をなにかほかの術と比較しようとするならば、それには貿易が好適であろう、貿易も人間同志の利害関係並びに活動の衝突だからである。しかしそれよりも遥かに戦争に近いのは政治である。政治はこれまた一種の大規模な貿易と見なされてよい。そればかりでなく、政治は戦争を胚胎し、戦争はこの母胎のなかでひそかに発達しているのである。生物の種々な特性が胎児のうちに潜在しているように、戦争の隠微な形貌もまた政治のうちにすでに示唆されているのである。(上189-190p)

 ここまでの文章は戦争を「社会生活」の領域においてみた場合の解釈であった。それでは今一度戦争を術の領域で眺めてみた場合、他の術とは何が異なるのか。クラウゼヴィッツは意志の働きの向けられる対象が異なるとする。他の技術、つまり機械的技術での対象とは生命のない材料、あるいは受け身で対象によって規定される精神や感情のことをいう。戦争において生命のない物体界の法則に類似するような法則、つまりビューローなどの理論を探し求める努力が行われた結果、絶えず誤謬を犯さざるを得なかった。(ここで法則という言葉を使用しているのは重要である。)

 では戦争術における対象とは何か。クラウゼヴィッツは次のように述べている。

 戦争においては、生けるもの同志の衝突が生起してはまた消滅し、このような起滅が絶えず繰返される。しかしかかる衝突は普遍的法則に従っているのかどうか、またかかる法則は行動に対しても有益な規準たり得るのかどうかという問題が、部分的にもせよ本篇で究明される筈である。それにつけても戦争は、我々の理解力の範囲内にある限りの物と同じく、研究的精神によって解明せられ得るし、また戦争の内的連関も、多かれ少なかれ明瞭に開示せられ得るということだけは明らかである。そしてこのことを成就するだけでも、戦争理論の概念を確立するに足ると言ってよい。(上190-191p)

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