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判りやすさと解りやすさ、あなたが求めている『わかりやすさ』はどっち?

『わかりやすい』という言葉に漢字を当てはめた場合に、『判りやすい』なのか『解りやすい』なのか、この違いは意外と大きい。

『判りやすい』は、判明。起こったことが実際どう起こったのか、目に見えるカタチで『認識しやすい』というイメージ。

『解りやすい』は、理解。何かの現象に対して何故そうなるのか(なったのか)内面まで含めて『納得しやすい』というイメージ。

わかりやすさの2つの側面

仕事や日々のやり取りでは度々『わかりやすく伝えること』が求められる。この『わかりやすく』というポイントには、2つの側面がある。

・判りやすく:情報は少なめでシンプル
・解りやすく:情報が多めだけど整理されている

求めているのが、このどちらなのか認識が合っていないと、なかなか話が噛み合わなくて苦労する。個人的な肌感だと、社会の中で求められていることの8割以上は、前者の『判りやすく』だと感じる。

社会のシンプル化の風潮

情報を簡略化したり、状況を単純化したり。この『わかりやすさ = 判りやすさ、すなわちシンプル化』を求める風潮は年々強まっているように感じる。

【情報過多な時代】
インターネットやSNSが一般化した結果、現代社会では大量の情報が手元に届くようになった。多くの情報に触れたい、でも1つ1つを理解する労力は減らしたい。もしくは、欲してもないのに情報が飛び込んでくる、もう何が何だかよくわからない。それらの結果として、単純化した『判りやすい』情報が重視されるようになっている。

【世界の高速変化】
情報が多くなっただけではなく、社会・経済・科学・技術などの進展も目まぐるしい。変化に対して素早く適応するためには、複雑に絡む要素を単純化して『判りやすく』することで少しでも多くの事例を把握する必要がある。

このように、現代社会と照らし合わせると『判りやすさ』を求めるのは自然な流れとも言える。

危険な二項対立

しかし、その先へ繋げるための間口を広げるような『判りやすさ』なら良いが、世の中に出回っている『判りやすさ』の大半は、ただただ目先の認識のために単純化させる『判りやすさ』だ。

そして、目先の判りやすさを求めるがゆえ『構造の単純化 = 二項対立』な状況を作る厄介な風潮も増えているように思う。善か悪か、敵か味方か、好きか嫌いか、などなど。

例えば、議論において「賛成か反対か」という二項対立が前提になると、相手を負かすことが目的となってしまい、多くの立場や価値観が排除され、極端な解釈の意見や揚げ足取りが中心となり、真っ当な対話が困難になる。

メディアの報道にもこの状況が現れることがある。新しい何かが出てきた場合に、既存の何かとの対立構造を勝手に作りだして、どちらか一方を批判している記事を目にすることは意外と多い。

ちなみに、人間は、情報が少ない場合には自分の都合の良い方向で解釈しやすいとのこと。(詳しくは「確認バイアス」で検索)

なので、ズバッと一言で言い切るのような発言や、名言・格言などのシンプルな表現が共感を生む場合もあるが、逆に、言葉の一部分だけを抜粋するなどして、批判する材料として便利に活用されてしまったりすることも少なくない。

曖昧さやグレーな部分の存在

シンプル化された情報や二項対立な見せ方は、極端な解釈(誤解)や不必要な批判を生む可能性がある。

「好きではないけど、別に嫌いというほどでもない」ということは誰にでもあることだが、『好き』か『嫌い』かの二択しか選べないとなると、自分の気持ちに嘘をつくことになるし、なにより誤解を生む地雷に囲まれているようで窮屈極まりない。

では、この問題を少しでも回避するためにはどうすればよいか。

月並みが言い方だが、単純化ばかり求めるのではなく、複雑性を前提にすることが大切だと思う。白か黒かをハッキリさせるばかりではなく、曖昧さやグレーな部分にも目を向ける必要がある、ということ。

暮らし方や働き方はもちろん、生まれた状況や育った環境や通ってきた文化や積み重ねた経験は人それぞれなので、そもそも単純化させるということが無理を強要しているようなもの。

最初からグレーを前提にしなくてもいい。先にも書いたように、間口を広げるための入り口としての『判りやすさ』も時に必要だ。危険なのは、その単純化した情報だけで完結させてしまうこと。

単純化 = シンプル化 = 判りやすさは、複雑性の存在を理解するための(解りやすさに繋げるための)入り口として活用するのが良い。複雑性を排除するための判りやすさは好ましくない。

コミュニケーションを生むために

シンプルな表現としての『判りやすさ』は、人間関係やコミュニケーションを円滑に(スムーズに)するために有効な場合も多い。関わる人の数が増えれば増えるほど、単純化させた情報伝達が重宝される。

対して、友人や同僚、家族など深い関係性を伴う人とのコミュニケーションでは、シンプルな情報交換だけでなく、自分の意思を深く伝えたり、相手の感情や意図を理解したりする『解りやすさ』も重要だ。

整理すると、多くの人とスムーズなコミュニケーションを求める場合には『判りやすさ』を。少し深めな付き合いを求める場合には『解りやすさ』を。

短期的に広くか長期的に深くか

シンプルな『判りやすさ』は、パッと見て認識できるという意味で、短期的な効果(即効性)や不特定多数の人の反応を得るのに有効。

対して『解りやすさ』は整理整頓されている状況が基本になるので、ある程度の情報量があることが前提。深めに納得してくれて長期的な付き合いを生むのに有効。

同じ『わかりやすさ』でも『判りやすさ』と『解りやすさ』を目的に応じて、またはバランス良く使い分けることが大切だなと感じている。

もちろん『判りやすさ』は、先にも書いたように、不必要な批判を生むような二項対立などは好ましくない。あくまで『入り口』として間口を広げるための単純化としての『判りやすさ』であってほしい。

このnoteによって、誰かが『わかりやすさ』に対する視点をちょっと見直して、日々のコミュニケーションや情報発信の活用につなげてもらえたら、とても嬉しいなって思う。

(*ちなみに『判りやすさ』よりも圧倒的に『解りやすさ』を目指して書いてみたが、ここまで読んで頂き無事に理解してもらえただろうか)

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