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おじさんプロティアンへの道〜プロローグ (追補版)

12月22日に同じタイトルで、この記事を発信したのですが、この時は800字の字数制限があり、元々書いていた文章を泣く泣く3分の1に削って出しました。一部の方から「もの足らない」とのコメントをいただいたこともあり、今回2022年の第1号のnoteとして、オリジナルの文章に若干修正を加えて改めて出させていただきます。

現在、62歳。この3月に40年勤めた会社を卒業し、いよいよ第2の人生に踏み込みます。昨年12月24日に実質的な最終出社を終えました。現在、有給消化中で、3月末の正式退社までに今後の生き方を固めていこうとしている最中です。ここでは、これまでの人生を振り返り、プロティアン・キャリアとの関わりについて触れてみたいと思います。

落ちこぼれの部活

私は、愛知県西部の田舎に生まれ育ち、小・中・高と地元の学校に通いました。その頃は、目立たない、運動もあまり得意でない子供でした。部活は、中学では野球、高校では陸上部に入りましたが、如何せん運動能力が欠けていたので、どちらも落ちこぼれでした。

大学に入り、入学式で黒の正装できらびやかな演奏を披露していた管弦楽団に引かれて入部してしまいました。本当は、高校時代から始めていた写真を高めるために写真部に入ろうと思っていたのですが、暗室生活と華やかな舞台上とを比較してついフラフラと違う部活に入部届を出したのが運の尽きでした。

努力すれば楽器の一つも弾けるようになるだろうと、バイオリンを担当。当時人気のあったさだまさしに少し似ていると言われていたのも頭にありました。しかし、現実は厳しく、音符も読めない、音感もない私には、毎日何時間練習しても、結局身につくことはありませんでした。これで、中高大で部活の3連続落ちこぼれとなってしまいました。

英語が全ての始まり
高校時代は、英語の先生に憧れ、将来はアメリカ留学の夢を描きました。そして、地元の南山大学外国語学部英米科に合格することができました。

ただ、入学してみると英語のできる人ばかりで、ここでも落ちこぼれを味わうことに。3年時、米国への交換留学生の資格を得るためにTOEFLの試験を受けましたが、担当教官からは、「君の成績では到底現地でやっていけない」と言われる始末。

それでも、なんとかイリノイ州立大学への交換留学が叶い、これが私の人生を大きく変えるきっかけとなりました。

留学先では、アメリカ人と他国の人との寮生活を送りました。勉強は大変で、唯一の息抜きは土曜日の夜のディスコパーティ。ここでの生活が、私の性格をオープンで前向きなものに変えてくれたような気がします

広報マン
元々は、英語の教師になる予定で、留学から帰国後の半年で教育実習にもいきました。ただ、友人たちが私は「教師が一番似合っている」というのに反発し、地元の有名メーカーを受けてみました。先輩訪問もなく、いきなり面接を受けたのですが、英語力のおかげで、採用されました。

1981年の入社から7年間、海外広報部門にいました。海外からのVIPの受け入れ、役員の通訳、広報資料の作成等がメインの業務でした。広報の仕事は、会社のことを全て知っていないといけないので、新人には少し荷が重いものの大変勉強になりました。また、社会人としての心構え、マナーも徹底して教え込まれました。

4年目から3年間、バブル最盛期の東京のオフィスで働きました。ここでは、海外特派員への対応やアニュアルレポート等の資料作成がメインでした。ここは東大卒のエリートばかりで、ここでも落ちこぼれを味わうことになりました。

この時代を振り返ってみると、落ちこぼれなんて思う前に、なぜもっと真剣に勉強をしなかったのかと今ではとても後悔しています。

改善マン

ほうほうの体で名古屋に逃げ帰ったのですが、異動先はこれまでとは全く毛色の違うアフターセールスの世界でした。担当したのは海外向け補給部品の価格管理と販促。数字は苦手だと思っていたのですが、やってみると海外代理店との価格交渉が楽しくて仕方ありませんでした。

その後、海外代理店や販売店の倉庫改善等に携わりました。これが、「改善マンという天職」との出会いでした。

1994年、カナダの代理店へ出向となり、家族5人で5年間駐在することになりました。ここでは、日本人コーディネーターとして部品倉庫や販売店での現場改善を含むアフターセールス全般を担当させてもらいました。企業規模が小さかったこととリーダーシップのある素晴らしいパートナーに恵まれ、思う存分自分のアイデアを現場で試すことができました。

カナダ時代は、家族でキャンピングカーを使って、カナダ中を巡ったのが一番の思い出です。(帰国後本にして自費出版しました)

ナイヤガラの滝

1999年に帰国後、カナダでの改善活動の成果が認められ、海外サービス部に移って、世界中の販売店(8000店以上)のアフターセールスのオペレーションスタンダード作りとその展開を任されました。このスタンダードづくりへのこだわりは「世界中どこのお客さまも自社の製品を使っていただいている限りは、最高レベルのサービスをどこのお店でも受けていただく権利がある」のでそれを実現するということでした。

このスタンダードを導入するための改善活動が、私の天職となり、その後の会社生活のほとんど(カナダ前を含めて約30年)をこの活動に携わることになりました。その間、ベルギーと米国にそれぞれ3年間単身赴任し、トータルでは世界89カ国をまわって、この「改善活動の布教」に努めました。

フォトグラファー

高校時代に一眼レフカメラを取得し、学生時代はイベントカメラマン。そして、カナダ・欧州・米国駐在時代には、旅行をしながら各地の風景写真を撮って歩き、それを旅行記にアップしてきました。また、ここ10年は、色々な教室に通い写真技術の向上にも励んでいます。

最近は、これに加えて副業として出張カメラマンをし、日本写真講師協会の認定講師の資格を取得しました。

英語・日本語教師

米国単身赴任中に、父がパーキンソン病を患って歩けなくなったため、駐在の予定を1年早めて2016年に帰国しました。予定外だったため、ポジションがなく、全く知見のない技術部門に配属されました。そこではあまり自分が貢献できる分野がないので、昼休みにボランティアで若手部員の英語能力育成(TOEIC得点向上)を買って出ました。

2年後、元のサービス部門に戻ることができたのですが役職定年で、あまり仕事がありません。そこで、会社に出向してきている外国人研修生に日本語を教えたいと思い、終業後に、日本語教師養成講座を受講しました。計420時間の講習を受けましたが、結構大変でした。

プロティアン・キャリアとの出会い


60歳の定年が近づき、定年後の生き方について色々な本を読みました。「定年後の生き方」「フィナンシャルプラン」「起業」に関する物をそれぞれ10冊以上は読んだと思います。

そして、会社の用意する「ライフプランセミナー」に出席して、コンサルの方に自分の経歴ややりたいことをお話ししました。すると「あなたのように色々な経験・趣味を持って、やりたいことがたくさんある人は珍しい。ぜひ、全く計画を持っていない他の人たちに語ってあげてほしい」と言われました。この言葉がキャリアコンサルタント資格を取得してみようと思うきっかけとなりました。

その勉強の中で、ダグラス・ホールの「プロティアン・キャリア」に出会い、また、エクトル・ガルシアの「IKIGAI」チャートに触れました。プロティアンキャリアを通してIKIGAIのある生活を実現するのが私の目指す道であり、実は私はすでにその道を歩みはじめているのではないかと悟りました。

株式会社IKIGAIより

今年3月に再雇用契約を満了させ、会社から卒業します。4月から、受験に成功すれば、田中研之輔先生のいらっしゃる法政大学キャリアデザイン研究室でキャリアについてもっと学びたいと思っています。

このような長文をここまで読んでいただき、ありがとうございました。趣味も含めて、プロティアンとしてのそれぞれの分野でのこれまでの活動とこれからの計画については、今後このnoteで書き綴っていきたいと思っています。

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