SNSとの訣別と、SNS政治の行方と

 おなじみ月末の白饅頭日誌は、月の終わりの散文だ。

 その中で、興味深い一節があったから紹介する。

 SNSに登場した「新たな話題」の行方もわからないし、「界隈」に登場した新進気鋭の人物名もわからない。マシュマロやDMで後追いで知らされることがあるかどうかだ。炎天下の現場で汗だくになり、腕や脚をパンパンに膨張させ、疲労困憊で帰宅したあとに覗き見るSNSは、まるで異世界の話をしているようにしか思えない。

白饅頭日誌:2022年6月の終わりの散文|https://note.com/terrakei07/n/n1b7752727c2e

SNSとの訣別

 実は私もツイッターを“辞めた”。ダブルクォーテーションで括ったのは、厳密には辞めていないからだ。アカウントは残しているし、白饅頭日誌の感想もツイートしている。しかし、それ以外は備忘録的な使い方しかしていない。後で読みたいとかnoteで引用してみたいと思った記事をシェアしたり、競馬の予想をツイートしたり、その程度の利用にとどめている。何より、タイムラインを追わなくなった。

 そのきっかけはウクライナ情勢に関する、あるニュースを巡るツイートだった。私に議論を吹っかけてきたアカウントは、その記事の見出しだけ見て中身を全く読んでおらず、「私はそんなこと言っていないし、記事にはこう書いてありますけど?」と返すと、再び記事を読むことなくリプライを返してきた。

 このやりとりは一人とだけしたやりとりだったが、心の底から呆れ、ほとほと疲れてしまった。元記事も何千というアカウントが――中には医師のような社会的地位の高い人々も含まれていた――記事を読まずに見出しだけ見て引用RTをしていた。もう終わりだ、と思った。ツイッターに入り浸っている人々の知性が、140文字を超える文章を読めない程度まで低下している、ツイッターに入り浸っている人々の理性が、140文字を超えるソースに当たってからRTしようという慎重さを持てないほどに低下している、そう思った。
 そしてこれ以上ツイッターに入り浸れば、彼らと同じように「退化」してしまうという危機感を抱いた。それで、タイムラインを追うのを辞めてしまった。

 ツイッターはアカウントがアクティブでなくなると、未練がましく「誰それがこんなツイートしてますよ!」と通知を送ってくるので、たまに覗いてみることもあるのだが、大抵の場合、言い争いをしていたり、バカがバカのことをバカにしていたりするので、「相変わらずだな」と思ってツイッターを閉じてしまう。

 しかし、そのことで何か不自由を感じたり、喪失感を感じたり、後悔を感じたりすることはない。毒気に当てられることもなく、日々快適である。

 私はツイッターを始める前は、「便所の落書き」こと2ちゃんねる(現5ちゃんねる)をホームグラウンドにしていた。基本的に2ちゃんねるはソースを大事にする文化がある。5ちゃんねるでも掃き溜め感の強い「なんでも実況J板」では、「本当じゃないか」=「マジじゃねーか」=「マシソンじゃねーか」というスラングがあり、嘘のような本当のニュースに対して「マジじゃねーか」という意味で「マシソンじゃねーか」とレスをつけ、本当そうに見えて嘘のニュース(過去のマシソン投手に関するニュースのURLが貼ってある)に対して「マシソン(の記事)じゃねーか」とレスをつける、結局「マシソンじゃねーか」というレスがつくという「お約束」があったのだが、とにかく便所の落書きの中の掃き溜めでも、住人は「ソースに当たる」という基本をこなしていた。

 しかし、ツイッターでは、ソースに当たることをせず、見出しだけで物事を判断し、議論を始めていた。
 はっきり言うがツイッターは今や便所の落書き以下である。そしてそれに気付いていない者たちが、せっせせっせと便所の落書き以下の何かを生み出し続けている。
 日々無駄なエネルギーを浪費している。何かもっとマシなことにそのエネルギーを使うべきではないのか。

SNS政治の行方

 さて、世の中は参議院議員通常選挙の真っただ中である。前回の総選挙では「ジェンダー平等が一大争点になった」と勘違いしたどこぞの野党が惨敗したことが記憶に新しいが、今回の選挙でもどこかの党がジェンダー平等のポスターを貼り出している。
 果たして今回の選挙が、ツイッター政治の終焉をもたらすのか、注意深く注視している。

 そもそもツイッターと政治の食い合わせは、本来とても悪いもののはずだ。先にも言ったとおり、140字以上を読めない・読まない知性と理性の低下を招くから、議論が深まらない。また、フォロー・ブロック・ミュートという機能があるために、タイムラインが偏る。
 しかしながら、まず金がかからないこと、お手軽に発信ができることから、ツイッターを多用している政治家は少なくない。私は、ツイッターにかける時間があるなら、選挙区に戻って街頭演説の一つでもすればいいのに、と思っている。

 確かに、知名度の高い政治家は、すぐに何万・何十万というフォロワーがつき、ちょっとツイートすれば何千・何万というRT・いいねがつく。「反応が数字になって見える」のである。これは確かに、政治家にとってありがたいものかもしれない。それはそうだ、彼らは常に「票」という「数字」の獲得を大目標にして生きているのだから。

 しかし、実際の選挙の結果は真逆だったのは前回の総選挙を見ても明らかだ。それはなぜか。ツイッターという空間は、選挙区ではないからだ。
 ツイッターは日本全国、全世界からアクセス可能であり、選挙区に関係なくRT・いいねができる。仮に20万RT・いいねがついたとして、選挙区は289区であったから、単純に選挙区数で割れば700弱である。バズっても、それほど票にはならないのだ。おまけに1アカウントでRTもいいねも引用RTもしている人がそれなりにいると考えれば、もっと票数としては少なくなるはずである。

 繰り返しになるが、ツイッターは「フォローしたい人だけをフォローする」という性質上、自分に都合のよい意見ばかりがタイムラインに並びやすい。ブロック・ミュートという機能があるから、タップひとつで都合の悪い意見ばかりつぶやくアカウントを簡単に排除できてしまい、ますます“理想のタイムライン”ができあがる。あたかも国民がこぞってジェンダー平等を望んでいるかのようなタイムラインを見ることになるのだ。

 一方で実際の国民の思いはどうか。物価ばかり上がって給料は上がらない、いつまでも上向かない景気を何とかしてくれ、年金だけでは食っていけない、社会保険料をこれ以上負担できない、コロナ禍で減った売り上げを何とかしてくれないと商売を畳まなければならない……、そんなものだったはずである。ジェンダー平等などという争点は、給料をそれなりにもらってコロナ禍にあっても安定した職業に就けていて、そこそこの生活が成り立っているからこそ叫ぶことができるものだったのだ。

 選挙区で街頭演説をせよ、というのはそういうことである。選挙区の有権者の生の声はツイッターでは聞こえてこない。実際に有権者と顔を合わせていれば、「そんなことよりもちゃんと見てくれよ、俺たちがどんな生活をしているか」という声が聞こえてきたはずなのである。

 そもそも政治というのは、いろいろな、時に相反する意見に耳を傾け、妥協点を探っていき、みんながすこしずつ納得できる結論を導くものである。ツイッターで自らがめざす目標を肯定する意見ばかりに埋もれ、考えを先鋭化させていくのは、政治のめざすところとは正反対なのだ。

 だからこそ、政治家ほどツイッターの利用に慎重であらねばならない職種はないのだ。お手軽にツイートを送信している場合ではない。ユーザーが我慢できる上限は140字。その中に過不足なく自分の主張を織り込むことは至難の業だ。

 今でも、ツイッターの特殊性に気付けていない政治家がたくさんいる。今回は一体どんな結果が待っているのだろうか。

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