9月の2本

あやめ十八番「空蝉 UTSUSEMI」

9月3日13:30 東京芸術劇場シアターウエスト

これは単なる自分の性質というか好みの問題だからどうしようもないのだけど、(経験・スキル的な意味で)やる気以外ほぼ何も持っていないに等しい状態の自分を快く迎え入れてくれたものが小劇場だったので「ただ凄いだけの演劇」に対して遠さを感じてしまう、というのが前々からある。一分の隙もない緻密な脚本、巨大な舞台空間、そういった「完璧さ」によってのみ構成された作品を見せつけられると、「ああ、この世界はどこまでいっても自分と重なり合うことがないのだろう」と思ってしまい、もともとフィクションでしかないものが更にもう一段階遠くのフィクションに感じられ、なんだか置いてきぼりにされたような気分になる。こんな考え方で舞台を見ている人間は少数だろうし、おそらく損な見方をしているんだろうなということもわかっているのだけど。

正直なところ、第一幕が終わった時点ではそんなことを考えていた。明確な「型」を持った規則正しいリズムで台詞が物語を運び、演技は達者、装置は豪華、そこにエンターテインメントとしての不満点はほぼ無いのに、その完璧さゆえにすべてが予定調和に見えてしまう。今まさに目の前で上演されているにもかかわらず危うさが全然ないという点がずっと引っかかっていた。100%の安全性を保証されたジェットコースターが、それでもどこかに(絶対あってはいけないのを前提としながらも)事故的なスリルを秘めていなければ乗客の恐怖心を煽れないのと同じように。

休憩を挟んで第二幕が始まると、それが杞憂にすぎなかったことがわかる。浄玻璃の鏡を狙って潜入した盗人どうしのぎこちない挨拶、「うわ、めっちゃキレてる…」という台詞の入るタイミングと言い方、そして「天国と地獄」生演奏によるドタバタ追走劇。メトロノームのように正確だったリズムに意図的な変拍子の亀裂が入り、その隙間から急激に人懐っこさが顔を覗かせる。ずっと端正な活字で書かれてきた文章が突然手書きに変わったような驚きと親近感が同時にやってきて、そこからはもう、あれよあれよとエピローグまで楽しまされてしまった(と意地の悪い言い回しをしてしまうくらいには、最初から掌の上で転がされていたのかもしれない)。

♯Q「スコトーマカフェ 他7篇」

9月10日16:00 新宿眼科画廊地下スペース

かつて「奇テ烈と彼女」というユニット名で数年前に上演された作品を含む連作コント集。純粋な新作は表題作の1本だけらしいのだけど、かつて「奇テ烈と彼女」を見たはずの僕が覚えているのは「リベンジ」だけだったので、ほぼ初見に等しい楽しみ方をした。記憶力の衰えが吉と出た珍しいケースといえる。

小山さんの脚本に登場するものは「意表を突いたボケ」と思われがちだけど、実は「灯台下暗し」なのではないかと思っている。このシチュエーションで何か面白いこと考えてください、とお題を渡されれば、ほとんどの人はそこから跳躍しようとする。ボケとは結局、いかに非常識なことを言うかを競うものなので、常識からの飛距離が長ければ長いほど良い…というのはある意味で真実なのだけど、小山さんはその簡単なルートを選ばず、出題者の足元に落ちている変な形の石を拾い上げてみせる。あるいは、出題そのものの意味をごっそり反転させてみせたりもする。シュールって単語で片付けるにはあまりにも本質に肉薄した発想は、たとえば断捨離という概念のもてあそびようだったり、「目撃談」での緊張と緩和の順序がひっくり返ったみたいな唐突なオチへと繋がっていく。

見ている間は気にも留めなかった"スコトーマ"の意味を調べて二度唸った。

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