3月の4本
小田尚稔の演劇「是でいいのだ Es ist gut」
3月11日19:00 三鷹SCOOL
公演としては初日、ほかにも複数ある日程のうちのひとつにすぎない。でも、物語的にいって今日のこの日をたまたま選んで予約したのは先見の明があったんじゃないかと自分を褒めてあげたい。そしてなにより歩いて帰りたくなる芝居だった。夜の道を、町を、非日常とまではいかないにせよ異化された特別な夜を。
あの3月だけが特別だったわけではなくて、まだ人類が「朝まで打ち上げ」という文化を擁していたあのころ、何度も終電を逃しては自宅まで7km以上ある道を歩きスマホで(地図を見なきゃどこにも行けないんだから許してほしい!)帰ったっけなあ。
ただ惜しむらくは作品のテイストと2時間20分という上演時間、それから会場の椅子との食い合わせが悪かったこと。後半20分くらいの記憶がほぼ尾てい骨の痛みで上書きされてしまっている。
やみ・あがりシアター「マリーバードランド」
3月19日13:00 北とぴあ・ペガサスホール
平穏な日常から扉を開けるや否や最短距離で混乱のどん底へ突き落とされる初速のエグさ、かけ離れている2つのモチーフが単純明快な(だけど誰もが見落としていた)共通項によって繋がる瞬間の快感…やみ・あがりシアターの劇構造は、上質な密室ミステリーの読後感と似ている。
結婚と所有、愛と領地、カネと凍結…絶妙にちぐはぐなパズルのピースが何かのはずみで突然ぴったり嵌まって、すべてが連鎖的に繋がっていく。いわゆる「伏線回収」みたいなこととはまた少し違うこの感覚をうまく言い表す言葉を、あいにくまだ見つけられていない。
もはや修復できない傷を、とってつけたような応急処置でぎりぎり繋ぎながら、それでも損失を最小限で食い止めるために苦し紛れと知恵をぶん回す。「南極での結婚式をめぐるドタバタ」でありながら「続行不可能なイベントの負債をどうやって埋め合わせるか」という話でもあり、2年前までは非日常の代名詞みたいなもんだったシチュエーションが今じゃ凶悪なリアリティを伴って襲いかかってくる。
見事すぎて唸るしかなかったのはラストの台詞。あれを「築いてきたものが消えて無くなる」絶望ととらえるか「やがて暖かい春がやって来る」希望ととらえるかで作品の解釈は180度変わるのに、どちらの解釈もほとんど同じくらいの可能性を残していて、しかも(これが一番重要)どちらの解釈も同じくらい魅力的。こちらの読解力と幸福論とが天秤にかけられているような気さえした。
会場のペガサスホールは初めて行ったのだけど、倉庫の位置といいテーブルの距離感といい、これのために建てたのでは?と思うほど空間が芝居に馴染んでいた。
答え合わせでもするように後からじっくり登場人物一覧を読む。なるほどね、動物園と水族館、なるほどなるほど。
劇団スポーツ「怖え劇」
3月19日18:00 王子小劇場
タイトルから勝手にいろんなパターンの「怖さ」を予想していたのだけど、完全に死角からの一撃だったし、正真正銘怖かった。今でもまだ引きずるくらい怖い。
これは超個人的な話になるけど、店長役のモデルになった人たぶん知ってる気がするぞ(でも劇団スポーツがその人のことを知っているはずはないのでどうなってるんだ)というくらい実体験とリンクして色々思い出してしまった。一方的に理不尽なだけじゃなく、一応「ごめんね」を頭につけてから否定されることの圧倒的リアリティ。
劇団スポーツは「略式:ハワイ」で初めて見た、ハチャにメチャを重ね掛けしたような自由奔放さが内臓ちぎれるかと思うくらい刺激的で、以来ずっと見続けている。メタ的な構成なのに作為らしきものの痕跡が全然見えず、登場人物が暴れすぎた結果として物語の枠組をうっかり突き破ってしまったような感じに終始していたのがとても好きだった。
回を重ねるごとにトリッキーさは鳴りを潜め、案外ロジカルに作り込まれているのが見てわかるようになってきたことに勝手に寂しさを感じていたりもしたので、「しっかりした必然性のある物語の構成」のその先で「登場人物が暴走した結果メタ的になっちゃう」の原点回帰を爆発させてくれた今作は内臓はじけ飛ぶくらい刺激的だった。演劇という場をメタレベルで支配しようとする力に演劇のメタ構造を使って抗うメタ性のないメタ演劇。見ていない人には何のことやらだろう。
すてらぷらんにんぐ「リュウキョク」
3月20日16:00 早稲田ギャラリーイズモ
「麻雀をテーマにした芝居」だったらきっと見に行ってなかった。脚本家の名前とあらすじから、そんなわけないという確信を得たので行き、行ってよかった。
くわえ煙草がそれだけで若干ハードボイルドの雰囲気を纏ってしまうように、押し黙って雀卓を囲む四人の姿が醸し出す不穏さというものが確かにあって、だけどそれは麻雀というゲーム自体の性質と何の関係もない。逆に、麻雀というゲームはその性質上「ゲームの進行状況についてぺちゃくちゃ喋るわけにいかない」ものでもあって、その相乗効果が麻雀を「麻雀と無関係な会話を加速させる装置」たらしめている。その場を動くわけにはいかない、だから何かを話し続けなくてはいけない。直接視認することのできない相手の出方を、要らないと判断して開示された情報から読み解いていく、が、最終的には運。これはそういう話だったと思っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?