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Talkin'bout CoffeeTalk

※この作品はフィクション、ですが、いつもの「この作品はフィクション」ではありません。ご注意ください。

書きかけていた序文

学生時代はテレビゲームに夢中だった。小学生のころはファミコンを買い与えてもらえず、近所に住む2歳上の友達から家に誘われて「今から俺がゾーマ倒すところを見とけ」と言われ、ゾーマが何かもよく知らぬまま後ろでただ見守っていたのがゲームに関する自分の最も古い記憶である。中学受験に成功したお祝いに従兄弟から中古のファミコン本体とソフト十数本をもらい受けて以後、スーパーファミコン、プレイステーションと順当にアップグレードを果たしていった。ゲームボーイは親に内緒で買ったので、二階の自分の部屋でこっそりゲームをする時は(テレビのない場所でもできるのが何よりの強みだ)自分でも恐ろしいほどの集中力を発揮した。階段を上ってくる跫音が少しでも聞こえたら、すぐさま本体のボリュームつまみを最小に絞って引き出しへと放り込み、何事もなかったように勉強しているふりを装うのだ。気づくのが遅れて引き出しを閉める勢いが強くなり、指に血豆を作ったことも一度や二度ではない。

一人っ子だったのもあってか、みんなでワイワイやるタイプのパーティーゲーム、たとえばマリオカートや桃太郎電鉄にはほとんど興味がわかず、アクションゲームは本人の運動神経同様ひどく苦手意識を持っており、ジャンプとアタック以外の複雑な動作を要求されるシステムにはまるで対応することができなかった。そんなわけで、主に遊ぶのはRPGばかりだった。ドラクエは4派で、FFは圧倒的に6派だった。群像劇好きな性格がよく出ている。

そんなふうに10年以上も熱中してきたゲームをいつの間にかほとんどやらなくなったのは、大人になってしまったから…などという常套句はもはや通用しない。あのころテレビゲームに顔を顰めていた大人たちは更に上の世代へと移行し、子供のころからゲームに親しんできた世代が今の「大人」の大半を占めている。電車に乗ればほとんどの人がスマホの画面に視線を落とし、そのうちの半数近くはゲームをしているだろう。では、なぜ僕がゲームへの興味を失ってしまったかといえば、それは「ゲームの裏側を知ってしまったから」なんだと思っている。

裏側といっても業界の闇を知ったとか、そういったことではない。プログラミングに興味を持ち、その結果ゲームのシステムがどのように構築・制御されているかという、いわば「世界の秘密」を覗き見てしまったせいだ。長い冒険の果てにやっとの思いで魔王を倒し、世界の平和を救ったつもりでいたものが、実際には基準値以上の目が出るまで徹夜でサイコロを振らされ続けるだけの行為だったと知って、物語を内側から破壊されたような寂しい気持ちになったのかもしれない。

ゲームの内側に物語は存在しない。ただのプログラム化された乱数とフラグのやりとりがあるにすぎない。そういう諦念が、いつのまにか僕を支配するようになっていった。

だけど、この考えはゲームの文学的側面を全く無視したものだ。昼も夜もなくレベル上げに明け暮れ、主人公が持つパラメータの数値が上昇することを第一の快楽としていた僕にしてみれば、その視点が抜け落ちることは不思議ではない。しかし文学部卒の人間としては失格だろう。普段「本当に素晴らしい演劇は必ずしも演劇の姿をしていない場合がある」などと嘯いている僕が、ゲームに対してはそういった文学性を認めていなかったってことになるのだから。

ここからフィクションの予定だった

さて、ここまでの文章を下書きに放り込んで保存したのが1月16日。いつもながら鬱陶しい長さの前置きを連ねた後に、僕が当初書こうとしていたものは「架空のゲームレビュー」だった。実在しないゲームについて、その画期的なシステムや洗練されたシナリオについて具体的に語り、さも実在するかのように見せかけるといういつものあれだ。実在しないものについて想像で語るとき、たまに実在しないものが実在するもの以上のリアリティを獲得して錯視図形のように浮かび上がってくることがあって、僕はその瞬間がとても好きなのだ。

ある程度、だいたいどんなゲームにするかという構想はできていた。あとはそれをもっともらしく味付けするために、それっぽいスクリーンショット画面をいくつか製作するだけだ。画像加工は以前より上手になったと自負しているが、その道を突き詰めたわけじゃないので最先端のフルCGみたいな画面をでっち上げることはできない。レトロな質感の、悪く言えば時代遅れの、古めかしい(だけど見た目の地味さを秀逸なシナリオが補っているという設定の)架空のゲームがいいだろう。

と、そこまで考えて、いざ現実のピクセルアート系ゲーム界隈って今どうなってるのだろうという疑問が湧いた。リアルな架空をやる以上は現実との対比をうまく調整していかねばならない。ちょっと調べてみようということで資料集めにかこつけてSteamをインストールしてみたら、件のゲーム・Coffee Talkと偶然の邂逅を果たしたのだった。そしてここからが、ようやく今回の記事の本題となる。

会話劇のマスターピース

結果から言うと、僕はこのゲームに出会ってしまったおかげで本来書くつもりの記事(架空のゲームをレビューする)をすっぱり諦めることにした。面倒臭くなったわけでもアイデアに詰まったわけでもない。あまりに感動したからだ。

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Coffee Talkはあらゆる面において、僕が想像上で捏ね回していたアイデアの何歩も先を行っていたから。こんなものが既に現実に存在するなら、わざわざ架空のものについて語る必要なんてないとさえ思えた。まがりなりにも架空作家を自称する者としては事実上の敗北宣言だといってよい。それから、それなりに多数の演劇を見てきた者として、Coffee Talkはゲームであると同時に極上の会話劇でもあった。ので、演劇をやっている又は見るのが好きな人には全員このゲームを体験してほしい気持ちがある。これは素晴らしい演劇を見た帰り道、劇場から駅までの道を歩いている途中に抱く感情ととても近い。

作品はSteamでもNintendo Switchでも遊べるらしい(PS4版もあるという噂)。見つけたリンクをとりあえず貼っておくので、ハードを所持している人はぜひ一度プレイしてみてほしい。内容について、登場人物について、人と語り合いたいことがとてもたくさんある。高揚している? そう、僕は高揚している。この高揚した気持ちをどこにどうぶつければいいかがわからなくて、だからこうしてひたすら文字にし続けている。

タイトル以上のことは起こらない

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Coffee Talkという題名が示すとおり、主人公(プレイヤー)はシアトルにあるカフェのバリスタで、来店した客に飲み物を作って出し、ときには彼らと会話をする。普通のゲームであれば多分、以下のような要素が主に「ゲーム」のゲーム性を担保してくれることだろう。

・カフェの規模を大きくする、または客数を増やし売上を伸ばしていく
・カフェを改装したり、店内にインテリア小物を飾ったりする
・より難易度の高いメニューを作れるようになり、バリスタとしてのスキルアップを図る
・会話の中でよりよい受け答えを選択し、客の好感度パラメータを上げる

Coffee Talkのゲーム内に、上記の要素はどれも存在しない。画面で見るかぎりカウンターしかないカフェにはそれでも空席が目立ち、客はだいたい1人か2人。それで夜の時間帯にしか店を開けないものだから、常連客にまで経営の心配をされる始末である。売上が伸びる人気メニューや仕入が安価で利益率の高いメニューといったものもなく、そもそも「お金」のパラメータ自体が存在しない(コーヒーが一杯いくらで飲めるのか、最後までプレイヤーが知ることはない)。たとえエスプレッソを求める客にカフェラテを出したとしてもペナルティはなく、「注文と違うよ」「ごめん」「まあいいけど」の短い会話で解決するし、間違えたことによるシナリオの変化もない(一応あるにはあるらしいが、展開が大きく変わることはない)。また、客との会話は基本的に客自身が進行するので、たまに相槌や意見を求められることはあっても聞き役に徹することがほとんどだ(たしかにカフェで友達と会話しているところへマスターがずかずか割り込んできたら、あまり気分はよくない)。会話の中に選択肢は一切登場せず、つまりそこには当然シナリオが分岐するような契機もない。唯一ゲームっぽい挙動を見せるのは飲み物を作る場面だが、これも結局は3種類の材料の順列組み合わせだし、あと普通にドリンクレシピを知ってさえいれば知識でどうとでも踏み倒せてしまう。

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と、およそ「ゲーム」が必要とするパーツをすべて削り取ったみたいにストイックなシステムは、ありていに言えば「登場人物どうしの会話を、ボタンを押しながら読み進めていくだけ」の代物であって、ここに関してはそれ以上にもそれ以下にも弁護の余地はない。え、そんなのKindleで漫画や小説を読むのと一緒じゃない? わざわざゲームの体裁を借りる必要がどこにあるというの? そう思う人はきっと少なくない。僕自身はこのゲームを大傑作だと主張して憚らない立場にいるけれど、大半の人がそう思わないだろうことも理解できるし、ゲームに「歯ごたえ」とか「やりがい」を求める人にとっては、Coffee Talkはきっと合わない。

でも、この作品がゲームという形でなければ表現し得ないものを抱えているのははっきりとわかる。それは作中でも暗に指摘されていることだ。

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美しい余白

ゲームである必然性のほとんどを剥いでいきながら、Coffee Talkが最後まで守り通したゲーム性の正体とは「間」なのではないか。これは憶測にすぎないのだけど、プレイしているあいだ最も強く感じたのはそれだったし、僕がこのゲームを「極上の会話劇」として称賛する根拠もそこにある。会話と会話の間、気まずい沈黙の間、不意を突かれて言葉に詰まる間、言い出しにくくて黙っている間、話の途中で鳴動するケータイに気を取られる間…ありとあらゆる種類の精密な空白の時間がそこでは表現されていた。

ゲームのプレイヤーは、相手の言葉に耳を傾けて(表示されるテキストを読んで)内容を理解してから話の先を促す(ボタンを押してテキストを次に送る)という、日常会話でほとんど無意識にやっている動作を自然と要求される。逆に、話を適当に聞き流して(機械的にボタンをポンポン連打して)進める自由もプレイヤーには保障されているが、もちろんそのやり方で聞いた話は要点がつかめない、というのも現実と同じ。それから間といえば、物語の行間もだ。

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Coffee Talkの舞台は西暦2020年のシアトルだが、架空のシアトルだ。その世界観はファンタジーに基づいていて、人間のほかにもエルフがいて、人狼がいて、吸血鬼がいて、彼らは同じ都市に共存している。このファンタジーをファンタジーだと笑うのは簡単かもしれないが、たとえば「結婚を望むエルフとサキュバスのカップルが、お互いの家族が持つ旧態依然とした他種族への偏見によって猛反対を受けている」といった設定で間接的に(間接的だからこそ、より直接的に)語られる諸問題に表れるとおり、幸か不幸か実際のところそれほど現実離れしていない。

そういったバックボーンを抱えた人や人ならざる者たちが夜な夜な訪れるカフェで、主人公の仕事はあくまで飲み物を提供すること、客の話を聞くこと、そして…客が話したがらないことを聞かないことだ。主人公は他の大多数のゲームの主人公がそうするみたいな、他者の物語に対する過干渉をしない。彼らの問題は彼ら自身にしか解決できないし、訪れる人物に関するすべての情報を網羅することもできない。見えるものは彼らがカフェに滞在した数時間のうちに話された出来事と、それを元に(主人公ではなく)プレイヤーが想像したこと、それが全部だ。もともと実在しないファンタジックなキャラクターの、そもそもテキストが用意されていない情報など、プログラムのコードをどれだけ奥底まで引っくり返しても出てこない完全な不在のはずなのだ。なのに今、彼らの存在を近くに感じてしかたがない。もっと知りたいし、もっと話を聞きたい。コーヒー代くらいなら持つから。

実在しないものについて想像で語るとき、たまに実在しないものが実在するもの以上のリアリティを獲得して錯視図形のように浮かび上がってくることがあって、僕はその瞬間がとても好きなのだ。

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補遺

ざっと調べた範囲の情報では、製作者はインドネシアのインディー・ゲームメーカー。製作にあたって日本の「深夜食堂」からも影響を受けているという。

すでに続編となる「Coffee Talk 2」も発売決定しているらしいが、まだ日本語非対応とのことで少し待ちたい。別に辞書を引きながら読み進めたっていいのだけど、カフェのマスターとしてのテンポが損なわれるだろうし、bikeをチャリと訳すなど念の入った日本語ローカライズも本作の魅力だったので。

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「合コン」を「合成コンクリート」や「合同コンクール」の略だと勘違いするシーン、あまりに自然な、でも絶対に直訳じゃ成立しない会話に「原文どうなってんの!?」と驚きのあまり英語表示で二度読みしてしまった。おそらく英語版だとdate(デート)とdate(日付)、それからdates(乾燥ナツメヤシ)を間違えている。すごい。深い。現在対応してる14言語すべてで検証してみたい。

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