8月の2本+1

今年は「■月の■本」のタイトルで毎月1記事ずつ、観てきた演劇の記録をつけるということを習慣づけていたのだけど、見てわかるとおり6月と7月は更新をしていなかった。書くのをサボっていたわけではなくて、観た本数が0本だったのだ。null。

かるがも団地 コント集「グレートジャーニー」

8月20日19:00 スタジオ空洞

会話劇のお手本みたいな一言目の声量から、いきなり畳をひっくり返すみたいに騒がしくコントへ雪崩れ込んでいく。その緩急があまりにも小気味よくて、あ、これはこのまま90分くらい見ていたいやつだと確信した(のに、65分で終わってしまった)。「ひとの魅力」を再確認させてくれる本公演でのかるがもイズムがそのまんま「キャラクターの強さ」に転用されている。

古くはベトナムからの笑い声や、最近だとダウ90000の漫才など、僕はおそらく「台本を書いた人間が最もカロリー消費の激しいツッコミに回る」構造が好きみたいで、その意味では『記念写真』が出色だったんだけど、ロジックがあるようで全くない(ように見せかけて実は多分ある)せいで「何がどうなった結果、自分は今笑っているのか?」を完全に見失ってしまう『お土産』みたいなのも同時に作れる手数の豊富さを思い知らされた。

生粋工房×劇団森「フィクション」

8月27日12:00 早稲田大学学生会館B203

虚構。作り話。
嘘、空想、虚妄、妄言、絵空事、捏造。そしてそこから拡大解釈によって派生する「真実と異なるもの」「現実的でないもの」といった意味合いを含む広い言葉、フィクション。

その広さを理解した上で、あえて史実とディストピアSFの交差点を射抜いてみたら「進行形の現実」が釣れてしまったみたいな作品だった。3年前から構想はあったとパンフレットには書かれていたけど、いくつかのシーンの執筆タイミングが現実より前だったのか後ろだったのか、とても知りたいところではある。それくらい逼迫したタイムリーさと、同時に、絵空事が事実に追いつかれてしまった危機感のようなものが全編に横溢していて、100分間ほぼ中弛みする瞬間がなかった。嘘だと思われるかもしれないけど、僕は客席2列目にいて舞台上から投げられるマイムの手榴弾を思わず避けようとしてしまった。

架空の国名や抽象的な単語によって明言こそ避けられているものの、見間違えようもないくらい実際にあった過去の出来事であり、近い未来そうなるかもしれない出来事でもある。一方で、登場人物には河童や半魚人が名を連ねている。ここんところの、ファンタジーとフィクションの間に線を引かず、ほとんど力業に近いやり方で同じ舞台に上げてしまうバランス感覚には劇団森の遺伝子めいたものを感じて頼もしかった(どの立場で言っているのか)。そして河童も半魚人も単なる一過性のギャグでは片付けられず、存在に必然性があったことを劇中で明かされるため、あからさまなフィクションだと指差して笑っていた僕らの鼻先にも等しく銃口は突きつけられる。

あと、装置の使い方と見立てが抜群に巧いと思った。それもゴチャゴチャした装飾のないシンプルな機構から最大限の効果をもたらすように計算されている。白旗の銃剣に白旗の映写幕、上空から降りてくる手駒に花道の柩…こういう才能と不意に出くわす可能性があるからこそ学館に足を運ぶ価値があるんだよなと思いを新たにした。

今、誰かが作った何かをきっかけに 創ったモノを見ていた者達が集い、愛するものとして語り合う渋谷の夜

配信 渋谷LOFT9

当初はイベント名から趣旨を読み違えていて、世間一般では無名ながらも魅力あふれる映画・演劇・展覧会などを、その方面にアンテナを張っている各界のクリエイターたちが紹介するのだと思っていた。ただ、興味はあっても素通りしてしまいかねない世界を覗き見ることができる点においては大きく違わなかったので良しとする。

子供の写真、食品サンプル、うどん、巨大建造物……これぞ本来のサブカルチャーというか、カルチャーのサブカテゴリに該当する引き出しを片っ端から開けていくように紹介される「おかしみ」の数々。それはそれでとてもたのしいコンテンツではあったのだけど、後半、明らかに異なる切り口から語られた2つのテーマ……『遅さ』と『記憶』に関するプレゼンが、個人的に考えていたこととも合致していて興味深く、そこだけ5回くらい巻き戻しながら擦るように見返してしまった。

細かい内容は直接視聴した者の特権として伏せておきたい(配信自体は9月8日まで見られるらしい)んだけど、いわゆる瞬間的に「バズりやすい」表現のことを『速さ』として扱いながら、その対極にある『遅さ』も大切にしていこうぜという態度は、じっくり対面で話す機会を逃し続けている僕にとっては久しぶりに耳にする言葉で、なんというか、ポストアポカリプスの世界で不意に旧友と再会したような、そんな懐かしい気持ちになったりもしたのだった。「こんなふうに考える大人は、まだ絶滅していなかった…」当たり前のはずなんだけど、日々を速さに埋め尽くされていく中で見たイベントだったので感慨もひとしおだったのかもしれない。

そして続く『記憶』の話。エピソードトークというコンテンツに昇華する過程で削ぎ落されてしまう、人生における「おもしろくもつまらなくもなかった瞬間」のことをただ話したい/聞きたいという欲望は、ずっと自分の中にあるのに言語化できなかった感情を代弁されたようで気持ちが良かった。なにより実際に他人の記憶の底から浮上してくる「おもしろくもつまらなくもない話」のおもしろさといったら!
「これだけのイベントやりたいですよね」とも言っていたのを僕は聞き逃さなかった。大体ああいう話ってその場の高揚感だけで流れていって実現まで至らないものだし半分くらいは諦めてるけど、本当にやってくれるなら今度は現地まで聞きにいこうと思う。

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