my own graduation
こういうのはね、恥ずかしくならないうちにサッと書いてパッと出してしまったほうがいいんだよ。
というわけで乱筆乱文上等です。予めご了承ください。
シアター・ミラクルに最後の挨拶を交わしてきた。
会う人会う人に「お元気ですか?」と尋ねられ「お元気ですよ」と返す、そこに偽りやごまかしの意図は全くないのだけど、最近の僕はといえば端的に表現するなら「だめ」だった。ミラクル閉館の報を耳にしてからもずっと観劇に足を運ぶことができておらず、というか、そもそも劇場へと足を運ぶ回数が明確に減っていた。原因ははっきりしてるけど、要らぬ心配もされたくないので(とか書くと余計心配されるんだろうけど本当に「要らぬ」だからね!)理由については伏せる。ともかく、演劇との距離が2年前3年前と比べても開きはじめていたのは明らかだ。そんなわけで、
観客としても裏方としてもお世話になった場所であることは間違いないのだから最後くらいは顔を出すべきだろう、という気持ちと、一年間ほとんど寄りつきもしなかった奴がどの面さげて名残惜しそうに振る舞うつもりなのか、という気持ちが拮抗して、行くべきかどうかをずっとウジウジ悩んでいた。
(念のためお伝えしておくと、僕は僕のなかに僕のやることなすこと全部が気に食わないし僕のやることなすこと全部が裏目に出て破滅すればいいと考える邪悪な人格を飼っているので、自分の行動に対しては殊更こんな風に思うのですが、今回劇場に来られなかった人への悪感情は一切ございません。)
「世の中に演劇は必要とされているのか?」や「自分は演劇を必要としているのか?」への答えはほとんど自明なくらい出ているのに、「演劇は自分を必要としているのか?」ということだけが判らなくなっていく……そんな日々を送っている自分に、はたして居場所はあるのだろうかと。
一人で思い詰めていると、ロジックばかり育っていく。真夜中の思索と自己否定の末に穴のない無慈悲なロジックがひとたび構築されると、そこから抜け出すことはほとんど不可能に近い。そして自作のロジックが強固に思えれば思えるほど、その気持ちを抱えたまま人と会うことがどんどん恐ろしくなってくる。
結論からいえば、それらはすべて杞憂だった。
エレベーターで4Fに上り、材の積み上がったロビーを通って劇場へ一歩足を踏み入れれば、そこには「他者」がたくさんいて、てんでバラバラに飲み物を飲んだり談笑したりしていて、(当たり前なんだけど)別に誰も僕が来たことを咎めたりしてなくて、
あ、そういえばそうだった。
人間ってそういうものだったよね。
と腑に落ちたのだ。
案ずるより産むが易しというか、百聞は一見に如かずというか、どちらにせよ昔の人はうまい事を言ったもんだ。世の中、目の前の楽しさ面白さで誤魔化しちゃいけない問題もたくさんあるけれど、目の前の楽しさ面白さが掻き消してくれる懊悩もたくさんある。見慣れた客席の段差に腰を下ろし、幾度となく見た劇場壁や幕やバトンをぼんやり眺めながら、いつ始まるとも知れない開演を待ちわびるように座っていると、やっぱり不思議と落ち着くのだ。
時間が経つにつれ徐々に増えてゆく来訪者、見知った顔、知っているけど久しぶりの顔、はじめましての顔。やがて客電が消え、劇場支配人自ら演じる一度きりの「いまこそわかれめ」が始まる。初めて見る作品だったけど、何度も見慣れた光景、いつもと変わらぬ客席の爆笑、万雷の拍手、終演後の挨拶。
これが劇場というものだ、と、長年の経験が告げていた。
客席から見るときも、あるいは上演する側で仕掛けるときも、いつだって僕らは劇中のどこかで必ず訪れる「代替不可能な瞬間」を見届けようとしてきたんじゃないかしら。そのために開演30分前からパイプ椅子に座ってワクワクと待っていたんじゃなかったかしら。
この日のシアター・ミラクルが代替不可能な瞬間で満ちあふれていた……とまで言ってしまうのは、さすがにEmoに押し流されすぎかもしれない。でも「代替不可能な瞬間」が訪れるまで、何時間でも気長に待たせてくれる空間だったのは間違いない。
劇場、だったなあ。最後の最後まで。
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