鬱屈と横行

 午後5時を少し回ったころ、TSUTAYAに寄ったついでに新宿をぶらついていると、人だかりができており、見ると喧嘩だった。歌舞伎町の付近を歩いているとこうした風景に出くわすことは多々あって、ああいうのを見るたび、人間というやつはまったく知能と理性を兼ね備えた生き物だと感心してしまう。そうとうに治安が悪いとされているこの町で、傍から見ればほとんど理由の知れない苛立ちに駆られた中年男が二人、ただ何をするでもなく向かい合って、民芸品の牛みたいに小刻みに首を上下させて、にらみ合って、見合って見合って、制限時間いっぱい。最後まで眺めていられるほど暇でもないので一瞥するだけで通り過ぎてしまうのだけど、毎回あれらのにらみ合いが結局どうすれば終息に向かうのか、興味はある。どちらかが暴力に訴えでもしないと収まらないような空気だけをぷんぷんに醸し出しておいて、それが不発のまま和解で終わるなどということがあり得るのだろうか。まさか夜中までずっと見つめ合ってるわけにもいくまい、素直におしゃべりしろよ恋人どうしじゃあるまいに。第一、ずっと立ちっぱなしじゃ疲れるだろうし、といって地べたに座ってにらみ合うのもナンセンスだ。夜になれば肌寒くもなる、尿意や便意だって不意に襲いかかってくるかもしれない。けれど、相手より先に根負けするわけにはいかない、みたいな変な意地が、知らんけど、そう男の?男の意地、みたいなやつが双方にあって、それに支配されている限り二人はいつまで経ってもおうちに帰れない。あの風景を長時間露光で写真におさめたら、人ごみの中で彼ら二人だけが停止した些かロマンチックな被写体になるかもしれない。

 三十年以上生きてきて、大人の本物の殴り合いというものをまだ一度か二度しか見たことがない。映画なんかではよく見るのに(たいていテーブルの上には割れやすい花瓶やグラスビールなどの小道具が置いてあって、それらが最初の一撃とともに薙ぎ倒されるようにガッシャーンと床に散乱し、それがゴングのかわりだ)現実には多少腹が立ったくらいで人は人を殴らないし、棒で滅多打ちにしたりもしないし、テーブルの上に割れやすいものが置かれているところで喧嘩が勃発すると、その場に居合わせた気配りのできる第三者が率先してそれらをどかしておいてくれる。

 そう、神様が知能と理性を与えてくれたおかげで、人は簡単には人を殴らないようにできているのだ。なかなかに年季の入ったいわゆる怖いお兄さん達でさえ最初は必ず恫喝から入る。有無を言わさずいきなり殴るチンピラは三流であるとされる。恫喝も暴力の一種ではあろうが、しかし、殴るという直接的行動に比べれば、恫喝はむしろ説得の上位互換であり、一種の様式美といってもよい。

 昨夜はレンタル1枚無料クーポンを消費して「苦役列車」のDVDを見た。再生音量が小さかったので外付けスピーカーをわざわざ繋いだ。おおむね面白かった。誰に肩入れするでもなく見られた。とりあえず、ひとが殴られたり蹴られたりするたびにゲラゲラ笑ってしまい、自分で自分がわからなくなる。日ごろから暴力は嫌いだと公言している人間のすることではないなと自分の二面性を恥じ入り、いっときは神妙な面持ちにもなるのだが、定食屋でテレビのチャンネル争いを頑なに拒む森山未來がリモコンを力まかせにへし折ってぼこぼこにされるシーンでは遂に堪えきれなくなり、床を転げまわりながら笑った。暴力は非日常であり、非日常はときに爆発的な笑いを齎してくれる。

 感動的や奇跡的を通り越してもはや普遍的に金がなかった時期、私も「苦役列車」に登場するような物流倉庫で荷分けの日雇いに従事したことがある。夜勤であった。苛酷であった。熾烈であった。海に面した、叫んでも誰も助けに来ないというのが少しも誇張でないような埠頭の巨大な倉庫で、ひっきりなしに行き交う荷積みカートのがしゃがしゃ軋む音だけが高すぎる天井へ反響する丑三つ時、まともな思考力など丸砥石で削られるが如く早々に磨耗し、働けど働けど云々以前に就業5分でぢっと手を見る始末。仕分けをおこなう人間が疲労というものを余儀なくされるのに対し、凡そ疲れを知らぬコンベヤの無慈悲なる一定速度、それに加え運ばれてくる荷物の重量は一定でないというストレスが拍車をかける。一度など、大きな発泡スチロールの箱が流れてきたことがあり、伝票には走り書きでただ一文字、蟹とあった。コンベヤの荷物にはすべて伝票が張られており、伝票の左上に記載された小さな数字が荷物の行き先を決める。私の仕事は、伝票番号の最初の桁が4で始まる荷物を自分のところでコンベヤから降ろして台車に積んでゆくことだった。はたして蟹の伝票には4で始まる数字が羅列してあり、さきほどまで薬用石鹸の詰め合わせやクッキー缶といった軽い荷物ばかりで油断していた私は、ごくあたりまえに蟹いっぴきぶんの重さだけを想定して箱を引き抜こうとし、想定外の重量に腕をとられ、すでに限界に近づいていた足がもつれ、いきおいコンベヤの上に乗り上げてしまった。

――おい、何やってんだ遊んでんじゃないぞ!

 チーフの叱責が飛ぶ。向こうからすれば覚悟も常識も緊張感も足りない日雇いの若造がコンベヤの上でサーフィンごっこでもしているように見えたのだろう、怒鳴りながらも手は休めずに次々と荷物を流してくる。私はあわててコンベヤから降り、大きな溜め息をついた。そして、ついた溜め息の反動で大きく息を吸い込むと、こんな声が出せたのかと自分でも驚くような威圧的な低音で、おい今すぐ止めろラインを止めろ無理に決まってんだろこんな物量なめとんのか大体なんだ石鹸クッキー蟹ってそんな順番で流す奴があるかよ発泡スチロール詰めの蟹なんて保冷用の氷ぎっちぎちに入れてあるからクッキーで油断しきった体にゃ重すぎるに決まってんだ腰抜けたらどうしてくれんだ労災払えんのかこの腰抜けがそれからお前チーフのお前さっきワインの箱投げて寄越したよな割れたらどうするんだそれとも受け取り損ねたこっちの所為にするつもりだったのか最初の講習のとき荷物は配達される側の気持ちになって扱えって言ってたよなお前が言ったんだよな皆さんも割れたり壊れたりしたもの受け取りたくないはずだから丁寧に扱いましょうって言ったよな確かに言ったし確かに聞いたぞこの野郎それを投げて寄越すとはどういう了見だ表出ろ表お前はきっと一発ぶん殴られなきゃわからない阿呆だしぶん殴られてもわからない阿呆なんだろうが同じ阿呆なら殴らにゃ損なんだ誰がって俺が損なんだだから俺が得をするために殴らせろ、と一息にまくし立て、傍らにある段ボールの山へボス猿よろしく攀じ登ると片っ端から荷物を足で蹴落としながら、ほらほら拾いやがれお前らの大切なお客様が心待ちにしていらっしゃるお荷物とお前らの守りたい企業イメージと顧客満足と安全神話がこんな取るに足らない誰とでも代替可能な労働者ひとりの手で破壊されていくぞこれがプロレタリアの反撃じゃい産業革命じゃい、とあることないこと喚きながら大わらわで駆けつけてきたチーフの鼻っ柱めがけて思うさま跳び蹴りを入れる一連のシミュレーションを頭の内側でおこなった。しかし結局はひとつも行動に移さず、ただ泣きそうな顔をしながら痛む足腰をかばって罵声に耐え荷物を積みつづけるしかなかった。

 そう、こんなめにあっても暴れられないのだ。社会性、世間体、人様の御迷惑、後ろ指、冷笑、その他諸々の要因が、サイズぴったりオーダーメイドの足枷となって私の歩みをとどまらせる。だが、それだけではない。私が人を殴らないもう一つの理由は、殴り返されるのが怖いからだ。さいぜんからの自説に手の平を返すようなことを言うが、人はそう簡単に人を殴りはしないぶん、いちど殴られた人間は簡単に人を殴り返すことができる。これは東京に出てきて一度か二度だけ見た殴り合いの喧嘩、ならびに数々の映画やドラマで見てきた殴り合いの喧嘩を統計的にみるかぎり約束された展開なのである。正当防衛、目には目を、因果応報、右の頬を打たれたら左の眼を刳り貫け、等々の慣用表現がこの行動の合理性を補強している。私は殴られたくない、ゆえに私は殴らない。暴力を避けるために非暴力を選んだ私は、それでも突然殴りかかってくるかもしれない他人がこわい。こわくてたまらない。

 ふと顔をあげると知らない建物の前にいた。考え事をしながら歩くのはよくない。どこかへ向かうためといった本来の用途から離れ、歩くことが自己目的化してしまう。その建物はひどく老朽化が進んでいて、タイル製の床はあちこち罅が入っていたし、黄ばんだ壁紙からは合成甘味料の甘ったるい匂いがした。ひっそりと景品交換所か金券販売でも営んでいそうな雰囲気の建物の中には、しかし一つのテナントも見当たらなかった。廊下は無用心なほど真っすぐに延びていて、両脇には等間隔に扉が立ち並ぶのだが集合住宅というわけでもなさそうだし、看板や表札のたぐいも無かった。人のいる気配はせず、比較的清掃の行き届いた廃墟といった趣だった。どれか適当に扉の把手を回してみることもできたがそれは躊躇われた。廊下の突き当たりに階段が見え、私は何かを(きっと大したことではない)覚悟した足取りでそちらへと向かった。この建物には偶然踏み込んでしまっただけなのだからすぐさま踵を返して出ていけばよい筈なのに、わけもなく意固地になっていた。この建物の正体を見きわめずには帰れないという責任感になぜか支配されていた。けっきょく私も路上でにらみ合っている男たちと同類なのかもしれない。

 階段を一段ずつ上ってゆく。ステップの端に引かれた細長いゴム材は経年劣化でめくれあがっていたり、糊跡だけ残して消え失せているものもあった。踊り場を経由して二階へ辿り着くも肝心の建物内への入口は防火扉で遮られ、中の様子を覗くことは叶わなかった。そうなると、なんだか建物全体から馬鹿にされているような心地にとらわれ、ほとんど捨て鉢の気分で上へと続く階段をあらっぽく上りはじめたが、踏み出したその次の段は水で濡れており、また、階段の中腹には白い発泡スチロール製の箱が置かれてあった。とはいえ頭に血が上って足許を見ていなかった私はそれに気付かなかったのだが。スチロール箱には冷水がひたひたの位置まで溜まっており、そのうえ蓋がなかった。つまり私は、躓いて制御を失った自分の全体重をスチロール箱へ預けながら、箱の中の水面に対して膝をつくような形で落下し、その結果として通常の転倒よりも約三倍程度の盛大さでつんのめり、ずんががばっしゃーんという音をたてながら箱もろとも踊り場まで数段逆戻りする羽目になり、その副次的な影響によって水浸しにもなった。痛みと情けなさで暫く動けなかった。

 床へうつ伏せに倒れた私が顔をあげると、目の前を蟹が横切っていった。

 さきほどのスチロールケースに入っていたのだろう蟹は、つるつる滑るタイル床の上をつるつる滑りながら這いずっていた。そのさまは滑稽だったし、同時に見ていられないほど哀れでもあり、私はかつての物流倉庫を思い出していた。あのときコンベヤに乗って流れてきたのは、蟹、お前ではなかったか。そして今、まるで身に覚えのない床の上で摩擦係数の理不尽な裏切りに遭いながら、つるつるつるつるつるつるつるつる無駄足をばたつかせているお前は、あの物流倉庫でコンベヤにうっかり乗っかってしまった私ではなかったか。

 私は床の上で出来そこないの享楽的なダンスを踊る蟹を右手で鷲掴みにすると階段を駆け上がった。転んだ際に全身を強く打撲したはずなのだが痛みは全く感じず、衝動とも焦燥ともつかない熱が全身を支配していた。踊り場、防火扉、踊り場、防火扉、踊り場、防火扉、踊り場、防火扉、途中から数えるのも止めて果てしなく続くかに思われた階段は突然途切れた。到着した最上階に防火扉はなかった。そのかわり部屋も廊下もなかった。屋上にも続いていなかった。突き当りの壁に小窓が一つあって、それだけでフロアは完結していた。この世のてっぺんへ行き着いたような心地だった。ここへ上がってくるまで誰ともすれ違わなかったのに、窓はこの建物でゆいいつ生活の痕跡のように開け放たれており、平行四辺形に射し込む西陽が殺風景なタイル床の上をわずかに暖めていた。

 私は右手に持ったままの蟹を見た。蟹は、さきほど床を這っていた時よりもずっと弱っており、動かす足の速度も緩慢だったが、そんななか蟹は、その緩慢さを維持したまま、私の指を鋏んだ。

 私への反撃のつもりだったのか、単なる生理的行動のひとつでしかなかったのか、それはわからない。だが確かに結果として、蟹は私に暴力をふるったのだ。私は気付くと、どおりゃうぉそーい、かなんかいう奇声をあげながら全力で窓から蟹を放り投げていた。蟹は、さいぜんまで水棲生物をやっていたとは思えないほど鮮やかに、茜差す夕空の赤によく映える放物線を描いて気高く飛翔した。

 蟹を失った生ぐさい右手のひらを、シャツの裾で二、三度拭うと、私はよたよたと手すりにつかまり、徐々に痛みを取り戻しつつある体を引きずりながら階段を横ばいになって下っていった。

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