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「生き写しを求める愛」『源氏物語』の愛を読む—前世の記憶で繋がるふたりの往復書簡

愛する毬紗さんへ

新緑の季節の高野山は、生命の気が溢れる別天地だったのではないかと察します。あの加持祈祷の凄まじいほどの熱量は、六条御息所の怨念を体感するのに打ってつけですね。少し恐くはありますが、一度は経験してみたいです。ぜひ次の機会はご一緒に。タルトタタンの恨みの方が恐かったりして(笑)。

桐壺帝の孤独は、紫式部自身、夫と結婚後三年もせずに先立たれ、娘を一人で育て上げなければならなかった孤独と重なります。道長の手引きによる宮仕えで見たのは、藤原氏の権力のもとで自主性がほぼ断たれた一条天皇。外の世界で感じた孤独が、内の世界にも形を変えて存在することを知った紫式部は、その心情を自身の作品に反映していったのでしょうか。

また『源氏物語』において一般的に光源氏は、多くの女性と関係を持つプレイボーイという目で見られることが多いのですが、私は異なる見方をしています。

それは、「生き写し」を追い求め続ける人生。
その背景には「母性(桐壺更衣+藤壺)への愛情と喪失感」があり、その思いが長期に渡って続くことで、実際に記憶として残る藤壺が、プラトンが言うエロスのような存在へと変化してゆく。それは神と人間の中間にいる崇高な存在、常に高みを目指している存在であり、その対象の容姿は極めて明確。そして光はより高い理想像(身分・地位的なものか、内面的なものか)を追い求め続け留まることがない。

時間が経つとともに本来なら現実を受容し、精神的に立ち直る過程へと進むべきところ、しかし光は究極の理想像=「生き写し」にこだわり続ける。この物語全体を覆う因果応報・輪廻転生の視点から捉えると、現世の行為と結果は既に前世の善悪に関する行動や振舞いで決定されていることから、光は前世にどんな人生を歩んだのだろう、前世でも「生き写し」を追い求めていたのではないかと考えてしまいます。

もしそうであるとするなら、それこそ「無常」であり、生まれた身分で生き方が固定されてしまう世のやるせなさから物語られた「無常」とは別の「無常」が存在することになります。紫式部は、ひょっとすると自身も多少は持っていたかもしれない「生き写し」の追求願望を通して、その本質的要素を複層的に描き、結果的にこの作品世界に豊かな厚みを与えることに成功したのだと思います。

ところで四十一帖『幻』で光源氏が自然とフェイドアウトしていくのは、まるで「生き写し」を追い求める人生そのものが幻であったかのようにも受け取れます。
手に入りそうで入らないファンタジー... 欧米の読者はそのように感じる人が多いかも。

前世と現世における記憶の違いには、時々混乱しますね。
今お話ししている毬紗さんはどちらなのか、では私はどちらなのか、これからも時々この混乱を繰り返していくのでしょうか。お互いに広い心で受け入れていきたいです。現世で出会えてとても嬉しいです。

心からあなたを思いつつ 敬彦より

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