書評 片岡義男『歌謡曲が聴こえる』(新潮選書)

 本書を手に取る人は、『歌謡曲が聴こえる』という題名と、帯に書かれた「極私的ヒット曲の戦後史」という惹句から、戦後の歌謡曲を時代順にたどりながら、それぞれの歌にまつわる著者の思い出を綴った本を想像するかもしれない。しかし、それが誤解であったことは、本書を読んでいけば明らかになる。
 そのような、歌は世につれ世は歌につれ、という歌謡曲のとらえ方は、おそらく半分の真実でしかない。終戦から高度成長期に至る昭和の時代を通して、たしかに歌謡曲はつねにわたしたちのまわりにあった。それはラジオから、あるいはテレビから流れてきた。言い換えれば、歌謡曲はわたしたちをとりまく環境として、どこでも聞こえていた。しかし、著者の片岡義男の姿勢は、そういう受動的なものではない。片岡義男は、歌謡全曲集に載っている譜面を「読み」、そこから気になった歌の七インチ盤を買って「聴く」ことを繰り返したという。譜面からどのような歌になるのか想像をふくらませてから、実際のLPレコードをかけると、その曲が「聴こえて」くる。このような歌謡曲との接し方は、能動的なものであり、抽象的なものでもある。それはまるで実験科学者のような分析的な感性だと言ってもいい。ここでわたしたちは、片岡義男が十五年ほど前に出した音楽論集である『音楽を聴く』を思い出すだろう。今回の『歌謡曲が聴こえる』は、選書という小ぶりな体裁ではありながら、歌謡曲に焦点を当てた、その続篇なのである。
 本書は、歌謡曲が作られた時代へ、状況へと向かう方向性と、それとはまったく逆に、時代を超越したもの、普遍性と呼んでもいいものへと向かう方向性の両方を志向している。前者の時代性へと向かう場合でも、古き良き時代を懐かしむというノスタルジアに浸された筆致にはけっしてならない。たとえば、並木路子の『リンゴの唄』で、赤い林檎は「太平洋戦争で命を落とした日本の子供たちの象徴となった」と読んでみせ、松尾和子の傑出した一曲『誰よりも君を愛す』を「決定的な決別」の歌であり、それは「それまでの日本と、そこに生きた自分との、決別」だと解釈することで、この歌が時代を超越して「一九六〇年という時代そのものとなる」と論じるあたりに、著者独自の視点がうかがえる。
 時代性ということで言えば、アメリカのジャズやポピュラー・ソングとの接触から生まれた歌手たち、ナンシー梅木とフランク永井を論じた章が出色だ。英語の歌を英語で歌って通用したナンシー・梅木が、アメリカに渡ってから本名のミヨシ・ウメキに戻り、そこで歌ったもののなかでは「オリエンタルのアクセント」を意識しているところに「自分らしさへの模索」を見いだし、フランク永井がジャズを英語で歌うときそこに「日本語からの脱却の快感」のではないかと指摘するあたりに、読者は片岡義男の『日本語の外へ』や『言葉を生きる』といった著作に通じる道を発見するだろう。
 そして、普遍性ということで言えば、オリジナル歌手のものではなく、まったく別の歌手が歌う、いわゆる「カヴァー」を論じる部分がとりわけ興味深い。石原裕次郎の『夜霧よ今夜も有難う』を美空ひばりが歌えば、それは美空ひばりでしかないが、ちあきなおみが歌えば、その歌が本来持っている、時代を超越した「変えることの不可能な良さ」が現れているというのだ。これはどこまでも美空ひばりであろうとした美空ひばり論としても秀逸だが、音楽の普遍的な本質にもつながっている感触がある。片岡義男がカヴァー論という未踏の肥沃な分野を開拓することを期待したい。

(初出:2015.2 毎日新聞)

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