書評 舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』(上・下) (新潮社)

「この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれるんだって、知ってる?」

 舞城王太郎の新作『ディスコ探偵水曜日』の冒頭部で出てくるメッセージがこれだ。上下巻合わせて一〇〇〇ページ以上、枚数にして約二〇〇〇枚という桁外れの大作を、終始動かしているのもそのメッセージである。決定論と自由意志という問題は、古来より哲学者を悩ませてきた難問だった。ただそれは、小説の中に置かれると、因果の連鎖の中で人間がどう生きられるかという問い以上の意味を獲得してしまう。小説という、始まりと終わりがある枠の中で、すべてを作者が仕組んだ舞台の上で、登場人物がいかに行動できるか、ひいては作者も読者もいかに自由を手に入れることができるか、という問題まで一緒に引き連れてしまうことにならざるをえない。
 この小説の語り手であり、文字どおりの主人公の名前は、付けも付けたり、ディスコ・ウェンズデイという。彼はアメリカに孤児として生まれ、迷子を捜す探偵を職業にしており、現在日本にやってきて、踊場水太郎とも名乗っている。この名前からして、運命に踊らされる人物の役割を彼は背負うことになるが、そんなディスコ・ウェンズデイがどのように自らの意志で踊りだすのか、それが物語の骨組みである。もちろん、踊場水太郎という名前はただちに舞城王太郎という作者の名前につながっている。だから、言い直せば、この小説は踊場水太郎と舞城王太郎がいかに踊りだすかという小説であり、舞城王太郎がいかに作家としての全存在を賭けて踊り狂うかが読者にとっての見所になるはずだ。
 ディスコは、誘拐されていたのを探し当てて保護した、山岸梢という六歳の女の子と一緒に住んでいる。ところが、その梢に異変が起きる。しばしば、十七歳の梢が六歳の梢に入り込み、身体まで伸縮するのだ。十一年後の未来からやってくる女の子というこの珍奇な現象をきっかけにして、小説の時間と空間が歪みだす。ここでもう、読者にはこの先何があっても不思議ではないという確実な予感が生まれる。しかし、実際の物語の展開は、そうした読者の予感を大きく上まわる、幻惑に満ちたものだ。
 この小説を無理やりにジャンルの中に押し込めば、SFミステリということになるだろう。けれども、ここでは、SFやミステリの道具立てを過剰なまでに用いることによって、逆にそこを突き破ろうという強固な意志の力が働いている。ミステリとしては、パイナップルの形をした奇妙な館、そこで起こる連続密室殺人事件、さらには十人以上の「名探偵」が登場して、次々に「真相」を披露するという謎解き合戦の趣向などがこれでもかと言わんばかりに盛り込まれる。SFとしては、ハインラインの古典的名作「輪廻の蛇」をさらに複雑にしてぐるぐる巻きにしたようなタイム・パラドックス、それを支える時間論や宇宙論が、豊富な図解付きで次々と繰り出される。それに合わせて、物語の時間と空間もめまぐるしくあちこちに飛ぶ。いや、飛ぶのは単に時間と空間だけではない。主人公のディスコは、本当に時空を超越して移動することになるのだ。それも、ひたすら運命に抵抗しようという意志の力だけで。梢を愛しているという、その愛の力だけで。

「作家の小説が思い通りの筋道ばかりを辿るわけじゃない。でもそこには思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開ってあるじゃないですか。……物を作るとか創造することって全てが経験で得た知識を組み合わせてるだけじゃなくて、どこかで、ゼロから何かを生み出してるんですよ」

 ある登場人物はそんなことを言う。そうして世界を≪発明≫し、住む場所を拡大することが、生きることの本質なのかもしれない、と言う。もちろん、これは作者自身がこの小説にこめた思いだと、ストレートに受け取ることができる。どれほど小説の形や構造が複雑であろうと、舞城王太郎のメッセージはつねにストレートだ。物語にどれほどのツイストが含まれていても、それはなにしろディスコだから当たり前だと作者は言う。それはあくまでも踊り方なのだ。
 物語の途方もない展開に翻弄されっぱなしの読者は、いわば作者に踊らされているような感じを味わうが、勢いが加速してページを繰っていくにつれて、次第に自分も踊りだす。すなわち、痛みに満ちたこの世界のどこかに、広い別の世界を見つけ出そうと、壁に頭をぶつけるようにして奮闘するディスコに、頑張れと一緒になって声援を送りたい気持ちになるのだ。その意味で、ディスコと読者の意志の力が束になり、小説の結末を作っていく。それが予定調和だとはけっして思わない。すべてをぶちまけたような、破れかぶれの踊り狂いから生まれた、ひとつの奇跡だとしか思えない。

(初出:2008.9 毎日新聞)

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