書評 井上理津子『大阪下町酒場列伝』(ちくま文庫)

 新刊の文庫本の棚を眺めていたら、ふと本書の表紙が目にとまった。酒場のカウンターで、生中のジョッキを手にしたおっちゃんが高笑いしている写真。「どや、兄ちゃんも一杯行こっ!」と言われているような気がして、ついこの店というか文庫本の扉を開けてみた。
 ここに並んでいるのは、大阪の下町にある酒場の紹介で、ぜんぶで二十九軒。どれも文章と写真の取り合わせがいい味を出している。こういう本は、それこそイッキ、イッキとばかりに、短時間で読み切ってしまうのはもったいない。描かれている一軒一軒を、そっと差し出された一品料理のつもりで、缶ビールでも飲みながら少しずついただくのがいいだろう。
 酒場の話だから、まず酒の話が中心である。「お一人で酒二合お飲みのお客様に酒一合サービス」というとんでもない店は、いかにも大阪のジャンジャン横丁ならではで、よく考えてみればわたしもその店に入ったことがあるのを思い出した。それとは逆に、とびきり上等な酒もある。天野酒の大吟醸。ちびりちびりと飲みながら、著者は「あ〜私の体が喜んでいる」とつぶやく。読者としては、その言葉だけでもうお相伴にあずかったような気分になれる。
 もちろん、うまいもの料理もある。明石のタコのおどり、小名浜から取り寄せたサンマの笹干し……。いちいち挙げればきりがない、工夫をこらした店の味を、そっくりそのまま読者の舌に伝えてくれるのが文章家の腕なのである。
 しかし、もちろん話は酒や料理だけではない。わたしたちが本書で味わうのは、結局のところ、酒場のマスターやママさんと、そこに集まってくる客たちの大衆的な姿であり、そしてそこで交わされる、生きた大阪弁だ。小さな酒場には、それぞれに歴史がある。戦争や好景気を通り過ぎてきた物語がある。十五で宗右衛門町の花街に入り、戦後には北の新地に来て、万博の少し前からおでん屋を始め、今なお店を開いている大正生まれの女将さんの話がじかに聞けるのは、酒飲みに与えられた特権だ。
 シベリア抑留から引き揚げてきて、夫婦で店を始めてから五十年余り。そこのオバチャンがこう言う。「オバチャンかて引き揚げのときは大きいお腹かかえて馬に乗って川渡って、道なき道をニか月歩いて、言うに言えん苦労してきたけど、運良く生きて来られたんやもん。ええねんええねん」
 ええねんええねん、か。やっぱり大阪人やなあ。本書で最も感動的なこんな言葉を聞くと、こちらもつい、オバチャン、ビールお代わり、と声をかけたくなる。わたしたちが酒を飲む理由が、ここにぜんぶ詰まっている。
 だからわたしたちは、また今夜も酒場に足を運ぶ。それぞれの人生を抱えて。今風の若い女の子が一人で入ってきて、「ビールと湯豆腐ください」と言うなり、ビールをぐいっと一呑みしてから、カバンから文庫本を取り出して読みはじめる。そういう姿もなかなか魅力的じゃありませんか。わたしも今度、そのまねをしてみよう。ただし、取り出す文庫本は、この『大阪下町酒場列伝』で決まりだ。

(初出:2004.9 毎日新聞)

 

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