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15分間中国近現代史 支那事変

(たぶん?)日本一カンタンでわかりやすい中国近現代史
豊富な写真と平易な文章で流れがつかみやすい

これはAmazonのkindle本『2時間で読める中国近現代史』(歴史ニンシキガー速報発行)に収録されている支那事変編を抜粋したものです。


盧溝橋事件勃発

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盧溝橋の中国軍


「パン、パン、パーン!」

北京郊外、永定河にかかる盧溝橋付近で夜間演習を行っていた日本軍の頭上に突然、数発の銃声が響いた。「すわ、敵の攻撃か!?」 緊張した日本軍は、いったん演習を中止、点呼を行ったところ兵が一人見あたらない。その後、しばらくして行方不明の兵はひょっこり戻ってくるのだが、時すでに遅し。一連の事件を中国側のしわざとみなした日本軍は翌日ただちに近くの龍王廟付近に拠っていた中国軍に対する攻撃を開始した。1937年7月7日夜から8日未明にかけてのことである。

事件発生の報を受けた日本政府は当初、不拡大派の奔走もあっていったん矛をおさめることに合意。ところが北京で停戦協定が結ばれたその同じ日、戦争拡大派に押しきられた日本政府は突如、強硬姿勢へと転換した。「中国の反省を促す」ためと称して三個師団の派遣を決定したのである。

当然ながら中国の世論は激昂した。それまで対日妥協を繰り返してきた蒋介石も、盧山での国防会議の席上、有名な「最後の関頭演説」を行い、「万一盧溝橋事件が平和裡に解決されず最後の関頭に立ち至った場合、われわれはいかなる犠牲を払っても国家としての存続を求める」と日本の満州侵略以来、初めて徹底抗戦の構えを示した。

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蒋介石

こうした一触即発の空気に点火したのは、25日から26日にかけて発生した廊坊事件と広安門事件である。前者は北京と天津の間にある廊坊という駅で起こった両軍の衝突事件であり、後者は居留民保護の名目で入城しようとした日本軍に北京広安門から中国軍が発砲した事件である。日本軍は一連の事件を口実に中国軍の北京からの撤退を要求。それが容れられないと見るや28日早朝、ついに戦端を開いた。

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広安門

満州、朝鮮からの増援部隊に力を得た日本軍は、圧倒的な兵力でもって中国軍を撃退、わずか数日のうちに北京と天津を中心とする地域を手中におさめてしまった。さらに日本軍は攻撃の手を休めることなく、そのまま察哈爾省や河南、山西、山東へと侵入。大同、石家荘、太原、済南など各主要都市を占領するとともにそれらを結ぶ鉄道沿線を支配下に置くことに成功した。わずか一か月ほど前、盧溝橋での数発の銃声に始まった日中間の小ぜり合いは、こうして華北の広大な地域を舞台とした大規模な戦争へと発展したのである。

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察哈爾作戦での東條英機兵団長

第二次上海事変と南京陥落

華北で燃え上がった戦火は、やがて中国最大の都市上海へと飛び火した。きっかけとなったのは、海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が8月9日、中国保安隊によって射殺された事件である。当初、日本側はこれを外交交渉で解決しようとしたが、今度は大前憲兵軍曹が中国保安隊に拉致される事件が発生するにおよんで日本政府は、松井石根大将を司令官とする二個師団の上海派遣を決定。続く15日には「支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促す」という声明を発表、事実上の宣戦布告を行った。

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大山勇夫中尉殺害事件

一方、蒋介石側も14日に「抗日自衛宣言」を発表、日本に対し全面対決の姿勢をあらためて鮮明にした。さらに同月22日には、紅軍の一部を国民革命軍第八路軍に改編することを公布。ここに2年前の「八・一宣言」以来、中国共産党および中国国民の宿願であった統一戦線の結成ーー第二次国共合作は実を結んだのであった。

当初、松井大将を司令官とする上海派遣軍の目的は「上海付近ノ敵ヲ掃滅」することとされ、その作戦地域もせいぜい蘇州、嘉興あたりまでと限定されていた。ところが、日本軍はこの中央命令を無視し、敗走する中国軍を追って北上、中華民国の首都南京へと向かった。これはしばしば満州事変以来、日本軍の「伝統」となった「現地軍の暴走」であるとして槍玉に挙げられるが、現地軍からしたらあるいはそうしなければならない理由があったのかもしれない‥。少なくともたとえそのまま撤退したとしても、それまでの中国軍の動きをみるかぎり、またぞろ同じ挑発を繰り返してくることは火を見るより明らかだったことは間違いないだろう。

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上海郊外の陣地で戦う中国軍


南京への総攻撃が開始されたのは、冬も押し迫った12月10日のことだった。これに対し、首都防衛の任にあたったのは、唐生智将軍率いる約10万の中国兵。かれらは、城外の雨花台や紫禁山に堅固な陣地を築き、果敢に日本軍を迎え撃った。だが、「南京一番乗り」を争う日本軍の士気は高く、中国軍はしだいに守勢一方に立たされる。やがて12日の朝、雨花台と紫禁山が陥落、さらに同日の午後には日本軍の一部隊が中華門西方の城壁を越えて城内へと乱入すると中国軍はたちまち算を乱して壊走。なだれを打つように背後の揚子江へと逃れた。

翌13日、城内に進駐した日本軍は国民政府庁舎に日章旗を掲揚。ここに中華民国の首都南京は、日本軍の占領下に入ったのである。

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南京に入城する日本軍

この際、いわゆる「南京虐殺」が発生したと中国側は主張しているが、虐殺の定義が曖昧で、戦争そのものと犯罪行為との境界がはっきりしないこと、また犠牲者数が過大すぎたり、証言のみで物証がひとつもないこと、さらにそのような「虐殺行為」が果たして本当に日本軍によるものなのか、あるいは中国軍伝統の置き土産である暴行略奪によるものなのか判別しがたいことなどから、その存在をめぐってはいまも議論が続いている。

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南京市民と日本軍

以下は有料コンテンツとなります。なおAmazonのkindle本『2時間で読める中国近現代史』でもお読みになれます。→https://amzn.to/37gSGH9

徐州陥落と武漢・広東攻略作戦

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