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10分間中国近現代史 アヘン戦争

(たぶん?)日本一カンタンでわかりやすい中国近現代史
豊富な写真と平易な文章で流れがつかみやすい

これはAmazonのkindle本『2時間で読める中国近現代史: 豊富な写真と平易な文章でわかりやすく 流れがつかみやすい』(歴史ニンシキガー速報発行)に収録されている阿片戦争編を抜粋したものです。

中華帝国の落日

十七世紀なかば、衰退した明朝にかわって中国を支配したのは清朝だった。満州族を主体とする征服王朝であった清朝は当初、異民族による支配を不服とする勢力によって執拗な抵抗を受けたが、歴代の君主が英明だったこともあり、やがて中華帝国の衣鉢を継ぐ正統な王朝として受け入れられるようになった。さらに十八世紀後半の乾隆帝の時代には西モンゴル、新彊、台湾をつぎつぎと服属させ、中国史上最大の領土を形成するまでになった。

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乾隆帝

いっぽう、そのころヨーロッパでは産業革命が起こり重商主義から近代資本主義へと時代の歯車が大きく回転し始めていた。先頭に立っていたのはイギリスである。当時、すでにインドを植民地としていたイギリスは綿織物業を基幹産業として急速に発展していたものの、そこには早くも資本主義特有の問題が発生していた。国内市場が狭く、次々と生産される商品をさばき切れないという問題であった。そこで、イギリスがインドの次に目をつけたのが巨大な中国市場である。

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産業革命時代のイギリス

しかし、そうしたイギリスの前には大きな壁が立ちはだかっていた。朝貢貿易という中国独特の貿易システムである。中国には、中国こそが世界の中心であり周辺の国々はすべて中国の属領である、とする中華思想がある。この中華思想によれば、外国の国王はみな中国皇帝の臣下であるから定期的に贈り物をもって中国皇帝に朝貢しなければならないし、またこれに対して中国皇帝は見返りとしてそれ以上の品物を「下賜」 するものとされている。これがその朝貢貿易の仕組みである。

もっともその当時、民間人同士の貿易がまったく行われていなかったわけではない。清朝は原則として海禁政策をとっていたが、広州一港に限っては 外国商人との貿易を認めていた。そのため外国商人がこの広州貿易を通して商取り引きを行うことは可能だったのである。だが、これも清朝政府にいわせれば朝貢貿易の例外的な一形式に過ぎないものであり、その証拠にこの広州貿易には多くの制約が課されていた。

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広州湾の貿易船

たとえば、外国商人は清朝政府が認めた行商とだけしか取引ができない、広州には一年のうち夏から初冬にかけての4ヵ月しか居住することができない、それも広州の一角に設けられた特別居住区から一歩も出てはならない、婦女子を連れてきてはならない、といった制約である。 しかしこれでは外国商人にとって不便でしようがない。しかも当時、イギリスが中国から買っていたのは主に茶と絹であり、それに対してイギリスが中国に持ち込んだのは本国産の毛織物の他、時計、玩具、インド産の綿花などであったが、しかしこれらの品物だけでは中国製品を十分に買うことができなかった。その上、イギリス本国における茶の消費量はうなぎのぼりに増えるいっぽうだったので、茶の支払いに当てる銀が大量に中国に流出することになり、その結果、イギリスは大幅な貿易赤字に悩むこととなったのである。

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ロンドンの喫茶店


イギリスのアヘン貿易

困ったイギリスは現状を打破するため1793年、マカートニーを北京に派遣した。不便な広州貿易を撤廃し、自由貿易を原則とする市場開放要求をもって交渉を試みるためである。ところが貿易といえば伝統的な朝貢貿易しか認めない清朝政府はイギリスの要求を頭から拒否。マカートニーの要求は一顧だにされなかった。

「天朝の産物は豊富であり、これといってないものはなく、外国の産物は中国にとって必需品ではない。ただ、天朝に産する茶、陶磁器、絹などは西洋各国の必需品である。だから、特別に広東において貿易をゆるし、天朝の余沢にうるおわしめているのである」

これが清朝側の言い分であった。

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乾隆帝に謁見するマカートニー

その後、1816年にはアマーストを団長とする使節を再び北京に派遣したが今度は謁見すら許されず、追い返される始末だった。

だが、貿易赤字という差し迫った問題を抱えるイギリスはそのまま引き下がるわけにはいかない。そこで奸計をめぐらしたイギリスはひとつの妙案をひねりだした。それはインド産アヘンを中国に輸出して茶の代金にあてるという方法である。

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阿片窟

アヘンはケシの実からとれる麻薬の一種で、吸飲すると陶酔感、至福感にひたれるが、常用すれば中毒症状をおこし精神も肉体もボロボロに冒され、最後には廃人となってしまう恐ろしい毒物である。しかしイギリスが大量のアヘンを中国に持ち込むとアヘン吸飲の風習は、上は高級官僚から下は一兵卒にいたるまで社会の各層に広がるようになった。それとともにアヘンの輸入量も飛躍的に増大、やがてその支払いには茶や絹の輸出だけでは追いつかなくなった。こうして1820年代には貿易収支はついに逆転、大量の銀が中国からイギリスへと流出することになった。その間、清朝は何度も禁止令を出してアヘンを取り締まろうとしたが、腐敗し切った官僚たちはこれを見逃し料ーーつまり賄賂のつり上げに利用しただけで何の効果も奏さなかった。

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インドの阿片製造工場

林則徐の登場

だが、アヘン問題は貿易問題である以上に深刻な社会問題でもあった。そのため当時の中央政界では、このアヘン問題をめぐってさまざまな論議が交わされた。大官のなかにはアヘン弛禁論を提議するものもいたが、その一方で「密売するもの、吸飲するもの、いずれに対しても厳罰をもってのぞみ、とくに官吏でアヘンに手を染めたものは極刑を与ふべし」という厳禁論も主張された。その代表的な論者が林則徐であった。こうしたなか、厳禁論へと傾いた時の皇帝、道光帝はついに決断を下した。1839年、アヘン密輸を取り締まるべく林則徐を欽差大臣(全権大臣)に任命し、広州へと派遣したのである。

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林則徐

広州に到着した林則徐はただちに外国商人に対し、アヘンの提出を命じた。だが林則徐を他の腐敗した清国役人と同様に見ていた外国商人はこの強硬策もワイロのつりあげが目的であろうとタカをくくり、なかなか応じようとしなかった。そこで林則徐は、提出日の期限切れを待って外国商館のある一三行街を封鎖。水や食糧の供給を絶ってしまった。ことここにいたってはやむをえない。外国商人たちはしぶしぶ約二万箱のアヘンを差し出した。

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