"めんどくさい"の処方箋

ADHD

私は、診断書付きのADHDである。病院に行けば、コンサータ錠がもらえて、飲むことで"やる気の源"ドーパミンが出やすくなる。

ADHDはEDに近い病気だ。何事に対してもやる気が湧かないから、集中は続かないし、次々に新しいことに手を出しては中途半端で投げ出していく。

そして、そういう人が最近増えているという(認知度が上がって病院に行く者が増えたのか、後天的に発症する絶対数が増えたのか、あるいは両方)。

引用:https://medical.jiji.com/news/54532

僕もそうだったのだが、精神科へ受診に行く動機は日々の生き辛さだ。忘れ物が異常に多い、遅刻して人に迷惑をかける、出された課題に全く手を付けられない。。ETC

しかし、ADHD的特性によって自分が受けているメリットだって大きい。好きだったら人一倍没頭できるとか、アイデアが出やすいとか、衝動的に行動できるとことか。自分でもこの能力はある程度気に入っている。

つまり、問題はADHDにあるわけではなく、ADHDの特性の一部分にあるというわけである。

名は、"自己コントロール能力の欠如"。またの名を"めんどくさい"。

コンサータを飲めばハイになって、めんどくさいが吹き飛ぶ感じがするのだが、根本的解決ではない。

第一に、飲めば飲むほど体が慣れて効かなくなってくるし、

第二に、軽い運動をするだけで激しすぎる動悸に襲われるようになった。

ゆえに持続可能性はない。

では、どの道も地獄なのか、、、

そう思った諸君の心象を、あえて発破したい。

ADHDは甘えだ!!!このヤロウ!!!

ADHDじゃなくても、誰でも日々辛さを多かれ少なかれ感じているだろう。ADHDは特性の名称であって、病気の名称と捉えるべきではない。ADHDを自分が辛い免罪符にして、依存してはいけない。誰だって辛いことはある、そして幸福への道は誰にも開かれている。

甘えるな。諦めるな。

ADHDにはADHDなりの処方箋が存在する。

ADHDは正式な発達障害であるからこそ、治せないというイメージがつき纏う。

けど、治るのだ。というか共生するのだ。工夫してないだけなのだ。無論これは、自分以外にエビデンスの無い、根拠のない自信というやつである。

でも、できると思わないことには何も進まないじゃない?

キーワードはこれ。

認識論集中力である。

ここに注目することこそが、唯一(唯二だが)、コンサータに頼らずに"めんどくさい"病を克服する手段である。

(もちろん、あなたがADHDであるか関係なく、めんどくさいを克服する方法の一つとして参考にして頂きたい)


認識論

まず、人の話をする。

人々は世界を共有している。世界を貫く物理法則は共通し、現象は特別な理由もなく巻き起こる。

しかし、解釈は多様だ。世界は一つだけなのに。

例えば、鳥の糞が頭に落ちてきたとして、「汚い。今日は最悪な日だ」と捉える人もいれば「びっくりした!うんこだけに運が付いた」と捉える人もいる。

人の意思決定においては、感情だけに指向性は宿るから、個人単位で捉え方に正解がある。僕の場合、「びっくりした!うんこだけに運が付いた」と捉えるほうがポジティブに過ごせて楽しいから、そちらが正解の解釈である。

ここにおいて強調したい点は、「解釈が事実となり、その事実を元に人は思考をする」という点である。

「運が付いた人」は、それだけでポジティブに一日を過ごす。占いコーナーで一位だったみたいにはしゃいで、鳥の糞が付いた話を面白おかしく他人に話すかもしれない。これは「正の認識」がもたらす作用。

「最悪な日を選んだ人」は、怒りを覚えながら鳥の糞を拭い、つき纏う不快感にストレスをため込みつつ仕事をする、帰ったらどっと疲れて呟く。「今日はサイアク。」これが、「負の認識」がもたらす作用。

上記はあくまで想像だが、そうなる可能性が高いことは納得して頂けると思う。

んで。

ここからが本題。

めんどくさいってなんだろう、?

認識論には正解があった。考えれば正しい道を見つけられる。
考えるのをやめちゃいけない。もう一度。

めんどくさいってなんだろう!


僕なりの答えは、「未来の不快要素を察知して、現状と比較することで、現状何もせず耐えることを強く選びたくなる心理状況」のことである。

この状況になってしまったら、僕らADHDは成す術梨🍐。

コンサータのゴリ押しでぶっ飛ばすしかない。

でもそれは大嘘。

これは表のワザなのだ。話で読めたと思うが、これには裏のワザがある。

そもそも"未来の不快要素"を察知しない、

ということである。

認識論とは考え方だ。めんどくさい、と思った瞬間に、まず自分が負の認識、負の考え方をしていることに気付かなくてはならない。不快要素を察知すること自体、認識の失敗なのだ。

例を出す、

夜20時から会議があるとする。彼は、とても"めんどくさい"。なんとなく不安でいっぱいだし、できれば参加したくない。今日は彼の司会の当番なのだ。

この状況において、彼はすでに認識に失敗している。その状況に気付いたら、まず深呼吸して、次にストレッチ。取り込んだ酸素を脳みそに巡らせる。そして冷静になったところで、もやもやしてる不安の輪郭を整理して、具体的な課題として書き出す。課題それぞれに解決策を書き留める。これで不安を抱く必要性はなくなった。次に、これから起こるだろうイベント(この場合は会議)の楽しみな点に注目してみる。仲間と雑談できる、司会をすることで人を纏める方法を学べそう、この会議で新しくやれることが増えること。楽しみな点と、現状選択している"何もしない"ということを比較しよう。"何もしない"でいる意味なんてないことに気付くことができる。

それこそ、上記の方法は丁寧な方法ゆえに"めんどくさい"かもしれない。僕も毎回これをやってるわけではない。これをやるのは、以下の方法でも駄目だった時の話。だから、より積極的に採択するのは以下の方法。

1.認識の失敗を自覚する→2.めんどくさいと思っているイベントの楽しみな点を想像する→3.「今何もしないより楽しくないか!?」と気付く。

これだけ。

これが、認識論的な解決法。

次回は、集中力について書きます。

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