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TVのある自室と教会としての映画館

時間から脱出せよ──半年ぶりに訪れた梅田のTOHOシネマズで、『TENET』のポスターに書かれたこの惹句を見たとき、私は胸の裡でこう呟いた。

「やっぱ、なん(何)か、ちゃう(違う)よなぁ……」

そう、「なんか、ちゃう」のである。この「なんか」を敷衍すると、宣伝コピーそのものに対する違和感もあったけれど、より大きくて漠然としたもうひとつの違和感があった。それは、コロナ禍によって外出機会がめっきり減ってこのかた、自室のTV画面でストリーミング配信の映画を観ていた間ずっと感じていたある疑問だった。つまり、自室のTVであれ映画館のスクリーンであれ、映画を観るという目的は同じなのに、どうしてTVのある自室は映画館たり得ないのか、ということだ。

コロナ禍によって、私たちの生きる日常空間──「何かをするための」空間は、目的と場所へと分解された。同僚と談笑するための居酒屋は、Zoomという手段を経て「語らうこと」と「自宅」へ、仕事をするためのオフィスは、Microsoft Teamsによって「業務」と「自宅」へと分解された。そして映画を観るための映画館は、ストリーミングサービスの手によって、映画を観るという従来の目的を簒奪された。では、コロナ禍が収束して後、映画館は目的を喪失したままゆるやかな死を待つしかないのだろうか。

私はそう思わない。いや、思いたくない。

アフターコロナにおける映画館(という空間)の目的を再定義するとすれば、それは「教会としての映画館」だ。西洋人にとっての教会的な空間として映画館を位置づけること。それがアフターコロナにおける映画館のポジショニングだと私は思う。

教会という空間には2つの性質がある。1つは祭壇に祀られた聖母像を通して自己と向き合う空間であること。もうひとつは、日常のど真ん中にありながら、同時に日常から遮断された聖域性だ。

まず前者の性質から検討してみよう。私たちが教会で聖母像へ祈りを捧げるとき、神は声を発して明示的に回答してくれたりはしない。それでも人々が一定の安らぎを得られるのは、目を瞑って祈っている間、自己と対話しているからだ。各人が想像した各々の神と、胸の裡で対話しているからだ。そして、その対話の相手たる神が当人の想像力に依って立つ以上、それは自己との対話に他ならない。

教会にとっての聖母像とは、映画館におけるスクリーンの関係性と同じである。映画を観る=スクリーンを観るという行為は、登場人物に自己を投影し、物語世界の中で疑似体験を得ることだ。スクリーンを見つめるとき、私たちは映画の世界に耽溺すると同時に、内面的に自己と対話している。あの時、主人公はこういう行動を取ったが自分だったらどうするか、あのシーンでヒロインはどういう気持ちだったんだろう──そういった内的な自己との対話を重ねることによって、観客は映画の中に感情移入していく。これが明確なドラマ構造を持たない、いわゆるアートムービーの場合、自己を投影する対象が登場人物からスクリーン全体へとシフトする、スケールの違いがあるだけだ。『タイタニック』で観客が涙するのは、海底に沈みゆくディカプリオに自己を重ねるからだし、『マルホランド・ドライブ』が混沌のうちに終幕を迎えるとき、スクリーンから匂い立つのは混乱というある種のカタルシスであり、およそ現実では味わえない(味わいたくない)愛憎醜美の折り重なった幾層もの感情である。

ここでいったん「映画館とTVのある自室」の関係に立ち返ってみよう。映画を映した自室のTV画面は、自己と対話する装置=聖母像として機能するのか。それを決定づけるのは視聴者の想像力と作品への没入度合いであり、その度合いを左右するのが教会という空間が持つ2つ目の性質──聖域性だ。

週末の午前になると、老若男女が教会へと足を運ぶ。眠気まなこの少年をせき立てる父親、杖をつきながらとぼとぼと歩く老婆、友人と歓談するティーンエイジャー。みな三々五々に集い合い、教会にむかって歩いていく。スティーブン・スピルバーグやノーマン・ロックウェルらが好んで描きそうな、典型的なサバービアの情景である。そして教会という空間は、そんなサバービア(郊外)という日常のど真ん中にありながら、日常から遮断された非日常的な空間=聖域でもある。

私たちが教会の長椅子に並んで座りながら、そっと祈りを捧げるとき、室内を満たすのは粛然たる静寂だ。祈っている間──目を瞑り、内なる自己と対話しているその瞬間、外部の喧騒も、私語も、場違いな考え事も、その他一切の雑音・雑念も私たちは排除するよう努める。それは教会という外部(日常性)から隔絶された、非日常的な空間が要請する態度でもある。身体的・精神的なコンディションの善し悪しに関わらず、ひとたび教会の長椅子に座ったが最後、私たちは聖母像と、ひいては自己の内的な存在と向き合わざるを得ない。そしてこのある種の強制力を備えた教会=聖域と対極をなすのが、日常空間の中心地たる自室だ。

自室のソファでくつろぎながらNetflixで映画を観るとき、私たちは日常に起因する様々なノイズに囲まれている。緊急性の低いメールの通知、パトカーのサイレンや若者の叫声といった窓外の雑音、あるいは自宅であるがゆえに惰性で飲み続けたアルコールによって催す尿意、といった具合に。自室ではこれらのノイズに注意力を乱されたとき、ボタンひとつで映像を一時停止できる。映画を中断できるのは、それが自室という日常の中心地だからだ。一時停止するのも、それからスマホの通知をチェックするのも、思いのまま。だが、これが映画館だとそうはいかない。映画館はノイズとは無縁の外部と隔絶された空間=聖域だ。仮に、ポケットの中でスマホが着信しようが、尿意を感じようが、前の席でカップルがイチャイチャし始めようが、そんな些事はそっちのけで映画は進行するし、それゆえに観客は乱れかけた注意力をかき集めてスクリーンと対峙せざるを得ない。この対峙せざるを得ない状況を生み出す強制力こそ映画館という聖域、あるいは「教会としての映画館」が包摂する空間的な魔力であり、TVのある自室が映画館たり得ない最大の理由だ。

時間から脱出せよ──冒頭でも触れた『TENET』の日本版宣伝コピーだ。本編の内容に即せば、「時間で挟撃せよ」という方が妥当だろう(作中における第三次世界大戦とは過去と未来の対立であり、時間軸は同一であると見做すべきだ) では、ここで「時間」の位置に「空間」を代入し、接頭部へ「映画という時間を」と補って読み替えてみるとどうだろう。

(映画という時間を)空間で挟撃せよ。

映画という時間を、空間──自宅と映画館という2つの空間で挟撃する。
自室でストリーミング配信の映画を観るという日常にどっぷり浸かった映画鑑賞と、映画館という聖域で自己との対話を重ねる、より没入度合いの高い映画鑑賞。両者は全く性質の異なる映像体験であり、空間である。だからこそ、両者はゼロサムな関係ではなく共存できる。映画産業に寒風が吹きつける今、ひとりの映画ファンとして、そう信じたい。

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