神聖冒涜、とはなにか
Burden of Despairの世界観、歌詞のテーマについて。
Burden of Despairで自分が初めてスタジオに入ったのは2021年4月のことで、そのときには既に新曲のデモが2曲ありそこにボーカルを載せるというところからスタートでした。
歌詞もボーカルラインもとりあえず自由にやってみて、という感じだったので初回のスタジオまでに2曲とも歌詞を書きあげてからスタジオ~Recを通してブラッシュアップしていきました。
イメージインプットとしてやはり2004-2006年にリリースされていたデモ音源から取っ掛かりを得ています。
キリスト教世界観における禁忌、嫌悪感、痛苦、悪性。
初代VoのAkiyamaさんはDyingraceでのイメージもあってどちらかというと敵対者としての強靭性と邪悪さという印象があり、自分はその雰囲気を残しつつも弱さも交えた皮肉っぽい視点を主軸に歌詞とボーカルラインを構築していきました。
神聖なるもののヴェールを引き剝がす、反転させる、堕落させるもの。
天から墜落するルシファー=人を誘惑/妨害するサタンとして同一視するという、悪性へのキリスト教的解釈(ユダヤ教においては両者は別の解釈)。
かつ、ルシファーという名前/存在自体が後世の人間の解釈によって生まれたものであるという意味も含んでいます。
善も悪も所詮は人が勝手に定めていることにすぎない、と。
EPのタイトルとなった
Desecration - 神聖冒涜
という言葉の着想は映画『ジョン・ウィック』シリーズにおける聖域解除(Deconsecration)から来ています。
神聖性が人の意志によって付与され、剥奪される。その滑稽さと傲慢さ。
あるいは主演のキアヌ・リーヴスが演じてきた『マトリックス』での世界構造の暴露や『コンスタンティン』における善や悪が裏を突かれる程度のルールにすぎないところにも精神の類似性を見出せます。
また、各曲については下記のようなイメージが簡単なベースとなります。
EPタイトルも含め、すべて「よい」とされる意味の単語を反転させる構成の英語表記になっています。
Godforsaken - 神によって見放された、繁栄(sake)を否定(for)された
そもそも神の声とは誰の意志なのか。それが神の意志なのだとしたら、外なる思想(recurrence=輪廻=インド哲学・仏教)をもって文明を進歩させ、神の支配を崩壊させる。
キリスト教同士の争いに巻き込まれて貶められたヴラド三世(ドラキュラ公)や、孤独な一等星として知られるフォーマルハウトとそこに住む"炎の吸血鬼"たちを束ねる旧支配者クトゥグア(炎の神性。炎=プロメテウスの火=人間に文明と技術を齎すもの)などが補助線。
St.Massacre - 聖なる虐殺者
キリスト教の聖人認定と戦争における英雄視やノーベル平和賞といった社会的権威付けを重ね、外から見れば虐殺者であっても「善きもの」として定義してしまう愚かさ。
罪を告白せよ、と迫り自分たちの尺度で他人を裁く、我々人類にはいずれ大いなる災厄が降りかかる。
Confession→モンティ・パイソンの『スペイン宗教裁判』のスケッチで描かれる滑稽さも補助線。
これらのイメージは表層的にはアンチ・クライストに見えるものの、むしろユダヤ教に対する破壊者としてのキリストにも通じさせています。
一部の人間による恣意的な解釈による神の運用、これを批判・否定し、共通幻想としての宗教よりも本質的な個々人の中にある規範・信仰を呼び起こすこと。
他者の決めたルールではなく、自身の知性と感性に拠って立ち、生きる。
「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの思想にも通ずるところがある、と個人的には考えています。
ちなみにEPはこちらで試聴/購入可能ですのでよろしければぜひ。