リベラルが冷静さを失った理由

群馬県草津町のリコール騒動に詳しくない人のために先に書いておくと、これは「白昼の町長室で町長が町議を性的暴行したという告発については『真相は藪の中』なので、町長が元町議を名誉棄損で訴えた件の司法判断が出るまでは判断保留にするべきであり、町民に判断させたリコールは妥当ではなかった」というレベルの話ではない。町議のその他諸々も含めた言動に対して町民の大多数の堪忍袋の緒が切れた結果である。36:03~の黒岩町長の説明には十分な説得力がある。

ここからが本題。結論を先に書くと、フェミニズムとポストモダニズムに汚染されたためである。

現代社会では、左派が政治的ただしさによって正当性を得た「エモ」によって人びとを動員し、右派がロジックやエビデンスでこれをちくちくと批判する逆転現象が起きている。

これを左派と右派の対立とすると事の本質を見誤る。そうではなく、現代社会の基盤のdignityカルチャーに対する左派のvictimhoodカルチャーの攻撃、理性を感情が・主観が客観を打倒する文化大革命である。Vカルチャーは女の本能に基づくカルチャーなので、フェミニズムを取り込んだ左派全体がemotionalなVカルチャーに染まってしまったわけである。両カルチャーについては下の記事を参照のこと。

草津町長に降りかかった災難はスマイリーキクチと似ていて、デマに騙されやすい&怒りたい人々が共鳴してネットリンチに参加したようである。

デマを広める人は、すなわちデマにだまされやすい人です。邪推を重ね、否定する材料に目を向けない。デマを自分の頭で考え、批判的に見ることができないんです」
ネットリンチをしたい気持ちに正義感の皮をかぶせて、自分を正当化している」
しかも今、その怒りはSNSなどで簡単に共有できる。共有すると、怒りは増幅します。みんな怒っている、だから俺は異常じゃ無いんだと安心できる。そうして罪の意識がないまま、他人を傷つける加害者になってしまう」

フェミニズムは「不満、怒りを抑えない」感情重視の"feelings, not facts"の思想(→リンチを肯定)なので、ロジックやエビデンスに基づいて決着をつけるdignityカルチャーとは相容れない。「今の社会や制度」が正しくないことが所与なので、自分の感情の正しさを確信して攻撃的になる。

第二に、日常生活の中で経験する理不尽なこと、不当な扱いに対して感じる違和感や不満怒りを抑えないことです。フェミニズムにとって、こうした感情はとても重要です。・・・・・・フェミニズムは、今の社会や制度を変えようとします。だから波風は立ってしまうし、その場の雰囲気が悪くなることもある。
上野 怒りって、表現して初めて怒り。表現されないと伝わらないもの、存在しないものと見なされてしまう。私たちの世代には、「怒る女は美しい」という標語があったんですよ。

具体的な証拠が何一つないにもかかわらず草津町長を性犯罪者と決め付けて攻撃したフェミニストやリベラルたちの思考は、内田樹をうんざりさせたヒステリックなクレーマー親と同一と言える。

対応していて窮するのは、彼らが「子ども」なんだからです。たしかに歳は取ってますよ。40、50歳の人なんですけれどもね。話にならないんですよ。自分の意見は正しいという頭で一杯になっていて、いくら道理を説いて聞かせても感情的になるばかりで。
結局はこっちが子どもをなだめるように、相手のヒステリーを治めるみたいな感じになる。向こうの言いなりに次々と譲歩していくのか、頭ごなしに「バカヤロー」と一喝するのか、どっちであっても、少しも建設的な結果にならないんで、これには本当にうんざりしたんですが…。
やっぱりメディアの責任は大きいですね。クレーマー親を作ったのは、マスメディアの影響が非常に大きい。

Cambridge Dictionaryのdignityの説明は"calm, serious, and controlled behaviour that makes people respect you"で「大人」の態度と表現できる。一方、感情に任せてヒステリックに怒り狂い、相手に一方的譲歩を迫るフェミニストは「子ども」そのものである。「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺があるが、これを「怒るフェミと上級国民には勝てぬ」に変えようとしているのがリベラルである。

Victimhoodカルチャーが社会の分断を拡大させることについては後日の記事で改めて論じる予定。

付録

左派のロジックやエビデンス軽視には"objective truth"の存在を否定するポストモダニズムの影響がある。この空間では客観的証拠に反する「私がエビデンス」が罷り通ることになる。

強調されるのは、20世紀後半に興隆したポストモダニズムの影響だ。客観的実在の存在を否定し、真実は視点や立場に左右されるとするこの立場は、自己中心的な「わたし」主義と共振し、主観性の原理の称揚につながった。
さらに言えば、相対主義の影響力は1960年代に文化戦争の幕が開いて以降、高まりつつあった。当時それは、西洋中心的、ブルジョア的、男性支配的な思想のバイアスを暴くことに熱心な新左翼と、普遍的な真実を否定するポストモダニズムの真理を唱える学者に採用された。あるのは小さな個人的な真実、つまりその時々の文化的・社会的背景によって形成された認識に過ぎないというのだ。
相対主義は、当然の成り行きとして、トム・ウルフの「個の10年(Me Decade)」から自惚れたセルフィー時代までに勢いを増していったナルシシズムと主観主義に、完璧に同調した。
More than 30 years ago, academics started to discredit “truth” as one of the “grand narratives” which clever people could no longer bring themselves to believe in. Instead of “the truth”, which was to be rejected as naïve and/or repressive, a new intellectual orthodoxy permitted only “truths” – always plural, frequently personalised, inevitably relativised.
And these attitudes soon spread across wider society. By the mid-1990s, journalists were following academics in rejecting “objectivity” as nothing more than a professional ritual. Old-school hacks who continued to adhere to objectivity as their organising principle were scolded for cheating the public and deceiving themselves in equal measure.
Above all, postmodernists attacked science and its goal of attaining objective knowledge about a reality which exists independently of human perceptions which they saw as merely another form of constructed ideology dominated by bourgeois, western assumptions.
Our current crisis is not one of Left versus Right but of consistency, reason, humility and universal liberalism versus inconsistency, irrationalism, zealous certainty and tribal authoritarianism. The future of freedom, equality and justice looks equally bleak whether the postmodern Left or the post-truth Right wins this current war. Those of us who value liberal democracy and the fruits of the Enlightenment and Scientific Revolution and modernity itself must provide a better option.

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